「受難週にキリストの歩みに導かれて」2024年3月27日(水)

 先週末に70歳代の最後の誕生日を迎え、今週は受難週を迎えています。プロジェクトのWEBサイトの自己紹介で高校生の時に信仰を持ったことを語りました。プロジェクトの中心的な聖書箇所はローマ書3章21-31節です。そのテキストの文字通りの理解に接して、その意味合いを自分自身に照らして見る作業をいただいています。

 この箇所の中心的なことは、22節の「神の義」と「イエス・キリストの信」の「分離のなさ」です。私のために、私の罪のために、父なる神と子なる神であるキリストが神のドラマとして救いの道を開いてくださったことです。端的に、キリストが私の罪を負ってあの十字架で死にまでも従ってくれたのです。すなわち、キリストが私の罪を身代わりとして負ってくださったのです。私自身が掛かるべき十字架をキリストが負ってくださったのです。

 肉にある者は罪を犯します。同時に肉になければ存在もしないのです。肉にあるので欲もあり楽しみもあります。しかし、肉にある限り神を喜ばせることは叶いません。律法が与えられていてもそれを全うすることもできません。神の民であるイスラエルは神の真実から逸れて不真実の中を歩んできました。旧約聖書の世界です。それでも神の真実は変わることがなかったのです。

 それで、律法は神の律法なのですが、律法にはできないことを神ご自身がしてくださったのです。御子であるキリストが私の罪を負って、十字架の死までも従ってくださったことで、罪のないその肉で私の罪の処罰もしてくださいました。キリストのその真実な歩みを神ご自身が受け止めてくださり、私をも受け止めてくだったのです。罪許された者として父なる神が私をも迎え入れてくださいました。十字架で神が私とも出会ってくださったのです。

 まさにキリストが十字架の死まで従われたその真実のゆえに、キリスト・イエスにおいて神の贖いがなされたので、神の義を無償の贈り物として受け止めることができるようになりました。神ご自身が律法によってはできなかったことを、御子であるキリストの信を通してなしてくださったのです。しかもその十字架を神ご自身が私たちと出会ってくださる場として提供してくださったのです。

 歳とともに今までの自分の罪を思い出します。そのことでの悔いはつきまとってきます。その意味での罪意識は最後まで残るのだろうかと自問もします。自問だけして同じように歳を重ねている同僚にもあえて尋ねたこともないのです。それでも分かることは、イエス・キリストの信のゆえに、十字架で神が私と出会ってくださり、私も十字架で神と出会うことができることです。そのことを信じる信仰を頂いています。自分の信仰の強さでも篤さでもないのです。ただイエス・キリストの信への信頼によることです。

 これはただ恩恵による無償の贈り物なので、自分の信仰生活が長いからとか、恵みに生かされているからと言って、誇る必要もないことです。もし誇ることになれば信仰自体が自分の業になってしまいます。それ以上に、イエス・キリストの真実の歩みを無にすることになります。できることは、そのキリストの真実の歩みに倣って少しでも真実の歩みを慕うことなのでしょう。そうすることでさらにモーセの律法自体がが神からのものであることを確認することになるのでしょう。そのことも神の義の現れなのでしょう。

 神の義とイエス・キリストの信の分離のないことで、不思議にそのキリストの真実の歩みに自分自身も含まれている実感をいただいています。神の側の贖罪の業にキリストが招いてくださったのでしょう。身代わりとしてのキリストが十字架の道を歩んでくださったことをより身近に感じる受難週です。

 上沼昌雄記

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