前回「信仰の働き」のことで、その「働き・エルゴン」が、一般に「業、行い」と訳されて「信仰」と対比的に使われているのですが、むしろ信仰そのものが「働き」をうちに含んでいるので「信仰の働き」で良いのではないかという、多少こだわりを取り上げました。その続きで、ガラテヤ5章19節で一般に「肉の行い」「肉の業」と訳されている箇所も、「肉の働き」で良いのではないかとこだわっている次第です。
この「肉の働き」は、エルゴンの複数形のエルガとなっています。「肉の数々の働き」のことで、淫らな行い、汚れと続いて列挙されています。すなわち、肉がそのまま働いたら、その働きの結果として出てくることがあげられています。その前にある「肉の欲望」(16節)に対応します。この前後は「御霊に従って歩む」ことが取り上げられていますので、肉のままで生きたらばどのような結果になるのかを語っていることになります。飲酒運転で刑を受けたメルヴィンのことを思うのですが、それは自分のことでもあります。
しかしこの場合に、「肉」を初めから「悪」とみる必要はありません。それは聖書の語っていることではなくて、ギリシャ的な善悪・霊肉二元論の影響から来ていることです。しかしこの影響は残念ながらキリスト教に根強く入っています。肉の世界を離れて霊の世界に、あるいは天に行くということが救いであるかのように、私たちの中で思われ、浸透しています。
「肉」は端的に神の創造の作品です。ただ「肉の弱さ」があり、悪が肉を捕らえて、住み着いてしまったために、肉のままでは残念ながらその働きの実は目を覆いたくなるものです。この辺の事情はパウロという人も個人的な体験として分かっていて、注意深く考え、ローマ書7章を中心に慎重に取り上げています。5節でかつて肉にあったとき「律法によって目覚めた罪の欲情(直訳:律法による罪の欲情)が、、、働いた」からと接続詞を持って説明しています。
律法は、パウロにとってはモーセの十戒で、具体的にその十番目の「むさぼってはならない」になりますが、私たちにとっては2:15の「良心」としての「律法の働き」(「律法が命じる行い」ではなく)のことになります。神のかたちに造られた私たちの中に、何が良いことで神に喜ばれることなのかを見分ける感性をいただいています。しかし、「罪」が戒めによって欲情を起こし、からだを罪の虜にするのです。肉の中で「律法の働き」があり、罪はそれを捕らえて欲情を引き起こし、その様々な欲情が「働いて」、「肉の働き」として数々の結果を現してくるのです。
それでも自分のうちでは、律法そのものは罪ではなく、本来「いのちに導く」ものであることが分かっています。それで自分としては「したくなくこと」をしていることで苦しみます。「うちに住んでいる罪」を直視するのですが、さらにどこか深いところで「内なる人」として「神の律法」を喜んでいるのです。キリストによる救いと御霊の助けを信じることができるからです。
7章の終わりでパウロはまとめています。「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えています。」「心(ヌース)」とは「内なる人」の中心で神の律法を認めることのできる識別力です。「仕える」は6章での「義の奴隷」「罪の奴隷」と対応します。残念ながら、肉には「律法の働き」があり、罪がその機会を捕らえて欲情が働き、「罪の奴隷」としてしまい、それが「肉の働き」として悪臭を放つのです。
それでも「内なる人」は、その深いところで心(ヌース)として神の律法を喜んでいます。「御霊の実」をこの体で結ぶことができるからです。悪臭を放つ「肉の働き」を「御霊の実」が覆い尽くして、かぐわしい香りを放つ者へと変えてくださるのです。「肉の働き」は自分中心の世界ですが、「御霊の実」は人を生かします。メルヴィンは激しい日中の仕事が終わってから、自分の小型トラックを出して教会の人の引っ越しを手伝ったと、教会の人から聞きました。
上沼昌雄記