「肉の働き」2018年8月27日(月)

 前回「信仰の働き」のことで、その「働き・エルゴン」が、一般に「業、行い」と訳されて「信仰」と対比的に使われているのですが、むしろ信仰そのものが「働き」をうちに含んでいるので「信仰の働き」で良いのではないかという、多少こだわりを取り上げました。その続きで、ガラテヤ5章19節で一般に「肉の行い」「肉の業」と訳されている箇所も、「肉の働き」で良いのではないかとこだわっている次第です。
 この「肉の働き」は、エルゴンの複数形のエルガとなっています。「肉の数々の働き」のことで、淫らな行い、汚れと続いて列挙されています。すなわち、肉がそのまま働いたら、その働きの結果として出てくることがあげられています。その前にある「肉の欲望」(16節)に対応します。この前後は「御霊に従って歩む」ことが取り上げられていますので、肉のままで生きたらばどのような結果になるのかを語っていることになります。飲酒運転で刑を受けたメルヴィンのことを思うのですが、それは自分のことでもあります。
 しかしこの場合に、「肉」を初めから「悪」とみる必要はありません。それは聖書の語っていることではなくて、ギリシャ的な善悪・霊肉二元論の影響から来ていることです。しかしこの影響は残念ながらキリスト教に根強く入っています。肉の世界を離れて霊の世界に、あるいは天に行くということが救いであるかのように、私たちの中で思われ、浸透しています。
 「肉」は端的に神の創造の作品です。ただ「肉の弱さ」があり、悪が肉を捕らえて、住み着いてしまったために、肉のままでは残念ながらその働きの実は目を覆いたくなるものです。この辺の事情はパウロという人も個人的な体験として分かっていて、注意深く考え、ローマ書7章を中心に慎重に取り上げています。5節でかつて肉にあったとき「律法によって目覚めた罪の欲情(直訳:律法による罪の欲情)が、、、働いた」からと接続詞を持って説明しています。
 律法は、パウロにとってはモーセの十戒で、具体的にその十番目の「むさぼってはならない」になりますが、私たちにとっては2:15の「良心」としての「律法の働き」(「律法が命じる行い」ではなく)のことになります。神のかたちに造られた私たちの中に、何が良いことで神に喜ばれることなのかを見分ける感性をいただいています。しかし、「罪」が戒めによって欲情を起こし、からだを罪の虜にするのです。肉の中で「律法の働き」があり、罪はそれを捕らえて欲情を引き起こし、その様々な欲情が「働いて」、「肉の働き」として数々の結果を現してくるのです。
 それでも自分のうちでは、律法そのものは罪ではなく、本来「いのちに導く」ものであることが分かっています。それで自分としては「したくなくこと」をしていることで苦しみます。「うちに住んでいる罪」を直視するのですが、さらにどこか深いところで「内なる人」として「神の律法」を喜んでいるのです。キリストによる救いと御霊の助けを信じることができるからです。
 7章の終わりでパウロはまとめています。「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えています。」「心(ヌース)」とは「内なる人」の中心で神の律法を認めることのできる識別力です。「仕える」は6章での「義の奴隷」「罪の奴隷」と対応します。残念ながら、肉には「律法の働き」があり、罪がその機会を捕らえて欲情が働き、「罪の奴隷」としてしまい、それが「肉の働き」として悪臭を放つのです。
 それでも「内なる人」は、その深いところで心(ヌース)として神の律法を喜んでいます。「御霊の実」をこの体で結ぶことができるからです。悪臭を放つ「肉の働き」を「御霊の実」が覆い尽くして、かぐわしい香りを放つ者へと変えてくださるのです。「肉の働き」は自分中心の世界ですが、「御霊の実」は人を生かします。メルヴィンは激しい日中の仕事が終わってから、自分の小型トラックを出して教会の人の引っ越しを手伝ったと、教会の人から聞きました。
 上沼昌雄記

「信仰の働き」2018年8月20日(月)

 創造と新創造の大きな枠で聖書を読み解いているN.T.ライトが、その枠の中でのクリスチャンの行動について、すなわち、倫理とも言えることに、パウロが語っている勧めと、信仰と希望と愛のことと、御霊の実のことに言及しながら真剣に取り上げています。その信仰と希望と愛の三本柱のことが、1コリント書13章以外にも取り上げられていることを紹介しています。
 その一つである1テサロニケ書1:3を、昨年出た新改訳聖書2017で確認いたしました。従来の新改訳聖書とは異なった言い回しになっています。「信仰の働き」が「信仰から出た働き」に、「愛の労苦」が「愛から生まれた労苦」に、「望みの忍耐」が「望みに支えられた忍耐」となっています。原語では従来の新改訳聖書のように「の」で二つの単語が繋がっているだけです。
 ここでは「信仰の働き」が「信仰から出た働き」になっていることだけを取り上げてみます。おそらく分かりやすく「信仰から出た働き」と説明を加えた訳になっているのでしょうが、その説明自体が神学的な読み込みと思われるからです。というのは、この信仰・ピスティスと働き・エルゴンは、対に使われていることがあって、特にそのエルゴンが「行い」や「業」と捉えられて、ピスティスとの対比、すなわち、信仰と行いという二元的な理解が支配的になっているからです。
 例えば、ローマ書3:27では、信仰と行いが律法と結びついて。「行いの律法」と「信仰の律法」と対比されています。しかし、一見信仰と行いが対比されているように思われるヤコブ書2章では「行いのない信仰」はないことが強調されています。すなわち、信仰と行いは対比されるときと、帰一的に使われるときがあるのです。それはエルゴン自体が信仰とは切り離せないで、信仰自体が働きを起こすものと理解できるからです。
 その意味合で、ローマ書2:15の新改訳の従来訳も2017訳も「律法の命じる行い」となっているのですが、文字通りに「律法の働き」ととると前後関係に合ってきます。すなわち、律法自体がうちに持っている働きが「心に記されている」ことに「良心」も納得できるのです。「律法の命じる行い」だと、律法と行いが初めから対比され、二元的に理解されていることになるからです。すでに一つの神学的な前提になっています。エルゴンの使われ方を無視していると言えます。エルゴンは「律法」そのものの働きを担っています。
 同じ意味合いで、エルゴンがロゴスと対で使われているケースがローマ書15:18にあります。「キリストは、ことばと行いにより」と、対比ではなく相補的に使われていることが分かります。1テサロニケ1:3の「信仰の働き」もその意味合いで捉えることができます。「信仰から出た働き」だと、どうしても二元的な区別を前提とした歴史的な神学の枠から出ていることになります。
 このことに沿ってパウロは、「希望の神が、信仰による (文字通りには動詞形で単に「信じることにおける」という働きを意味している)すべての喜びと平安であなたがたを満たし」(ローマ15:13)と言い、さらに「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によって働く信仰なのです(ガラテヤ5;6)と言っています。この意味でも「信仰の働き」と、そのままとることができます。
 多少テクニカルな説明を「信の哲学」を提唱する千葉先生の意味論的分析の助けをいただいてしてきたのですが、信仰そのものにすでに働きが備わっていると捉えると、先の動詞形のように「信じること」に思いを合わせることで、そこに働きとして信仰が現れてくるとなるので、信仰とは別に行いを考える必要がなくて、肩の荷を下してホットできます。信じることで、望みが湧き、結果として愛の実を結ぶ、それで良いのではないかと思います。
 そんなことでこだわっているのですが、さらにこだわりが許されれば、新改訳聖書2017の言い回しを従来の新改訳聖書の表現に戻していただいても良いのではないかと思います。そうすると「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」と歯切れも良く、リズム感も出てきます。原典にも忠実になります。まだ暑い夏の夕べに勝手に思っていることです。
 上沼昌雄記

「理事の妻たち」2018年8月13日(月)

A wife of noble character is her husband’s crown.
しっかりした妻は夫の冠。(箴言12:4)
The wise woman builds her house.
知恵のある女は家を建てる。(14:1)
He who finds a wife finds what is good and receives favor from the Lord.
妻を見つける者は幸せを見つけ、主から恵みをいただく。(18:22)
Houses and wealth are inherited from parents, but a prudent wife is from the Lord.
家と財産は先祖から受け継ぐもの。賢明な妻は主からのもの。(19:14)
A wife of noble character who can find? She is worth far more than rubies.
しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりはるかに尊い。(31:10)
 過ぎる金曜日の午後1時から理事の一人が経営される「みくにレストラン2号店」でミニストリーの理事会を開きました。お客さんで一杯のお店の一角のテーブルをそのために用意してくださいました。おいしい刺身やロールや焼き物をいただきながら歓談をして、用意した書類に従って議題を確認しました。新しい動きと変化を説明し、決算と予算の承認をいただきました。その書類の一つにいつも聖書箇所を選んで載せます。上記はそのために選んだものです。
 箴言を読んでいて気づいた箇所です。最後の31節の箇所は結構有名なのですが、すでに箴言全体で繰り返されていることに気づきました。パラレルな表現方法を使っていますので、最初の12:4では、「恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ」と対比されて「しっかりした妻は夫の冠」と言われています。21章では9節と19節で「争い好きな女と一緒にいるよりは、、、」とあり、その対比で「知恵ある女」「賢明な妻」が語られていることが分かります。
 「しっかりした妻」と表現されている英文noble characterから、私の妻は「高貴な」という意味合いの方が強いのではないかと言いました。現行の新共同訳では「有能な」となっています。英語欽定訳ではvirtuous「有徳な、貞淑な」となっています。ヘブライ語原語からは「高貴な」ともとれそうです。そして事実そのような妻は「高貴な」雰囲気を漂わせています。
 これらの記述はそのまま4名の理事たちの妻たちに当てはまると思い、一枚の用紙にまとめました。今回の理事会を妻たちへの感謝の場としたかったのです。理事たちは多少恥ずかしかったようですが、その場にいた理事の一人の妻は喜んでくれました。私の妻は議題のいくつかの英文をチェックしてくれたので議事の内容は分かっていたのですが、この聖書箇所のことは伏せていましたので、用紙を受け取って嬉しいようであり、驚いたようでした。
 4名の妻たちはなんと言っても輝いています。その笑顔は美しく、会話は弾み笑い声が絶えません。そして控えめです。主人たちを支え、子供たちをしっかりと育てています。ミニストリーを陰で支えてくれています。さらに御霊による自由を身に着けています。縛られている感じがありません。発言するときにはしっかりと意見を出します。そのような控えめな「高貴さ」を漂わせています。それは主人たちにも伝染しているようです。
 見渡すに、そのように輝き、控えめで、自由を身に着けている妻たちは、ミニストリーの理事たちの妻たちだけでなく、ミニストリーに関わる人たちの妻たちにもそのまま当てはまります。日本を北から南に旅をしながら関わり、交わり、お世話になる方々の妻たちも輝き、控えめで、自由を身に着け、高貴さを漂わせています。その人達との交わりと会話を思い出します。そのような情景が宝物のように浮かんできます。それは永遠の祝福を味わえる至福の一時でもあります。
 上沼昌雄記