「ある同窓会」2016年6月22日(水)

一週間前に妻のCAJの同窓会がペンシルベニア州の西部でありました。東久留米にある宣教師の子弟の学校の1953年頃から64年頃までの、卒業していなくても、その間学んだことのある人たちの同窓会です。このグループの集いは、妻に付いて行って3度目になりますが、表現しにくい感覚をいただくことになります。実際にそんなに抵抗なしに交わりに加われます。私なりの異文化体験をしているからかも知れません。

当然なのですが、宣教師の子弟として、自分の選択なしに、異文化体験をさせられ、しかも話を聞き出すと、戦後まもなくマッカーサーの勧めに従って日本に宣教師として来た家族なのです。こちらが知らない戦後の混乱した日本を知っています。同窓生が話す内容はこちらが面影とだけ知っている日本です。そんな日本の話を、ペンシルベニア州の田舎で、外見は全くのアメリカ人から聞くことになるので、自分のいる時間と空間が一ひねり回転してしまった感じになるのです。

当時教師であった方がふたり集っていました。ふたりとも90歳を超えています。ですので、参加している方々もすでに75歳前後になっています。妻は最年少でした。みな年齢を重ねているのですが、同窓会には特別な思いを持っていることが分かります。参加者はカナダとオーストラリアをいれて全米からです。正直よく集うと感心します。しばらくして分かるのは、自分たちの高校生時代の異文化体験を分かち合える場唯一の場なのです。それぞれの生活の中ではできないことなのです。それで3年に一度の同窓会ですが、喜んで集まります。

私も自分なりの異文化体験をして、だんだん故郷がどこなのか分からない状態になってきて、多少参加者と分かち合える面をいただいています。そんなこともあって私をも仲間と受けとめてくれています。仲間なのですが、どのような仲間かと言えば、故郷を喪失している者たちの仲間とも言えます。大げさなのですが、天の故郷以外に心のより場を持たない者たちです。決して戻ることのできない旅をしている者たちです。

中国人の子弟の方で、大使館関係で日本に来て、CAJで勉強して、今はロスに住んでいる方に会いました。61年ぶりに同窓生に会ったということです。同じ東洋人なので親しくなりました。同窓生の強い勧めがあって重い腰を上げてきたが、来てよかったと繰りかえしていました。61年間にあった試練も語ってくれました。

神の民がエジプトから出されてから(それ以前からなのですが)、決して故郷に戻る旅をしていません。それはいまだに続いています。天の故郷に入るまで旅人としてこの地での使命を抱えています。そのゴールに向かって歩んでいます。そのためにエジプトを出たあとに神はその使命を明確に語っています。

「あなたがたは、わたしがエジプトでしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト19:4-6)

どこかでこの同窓生たちは神の大きな計画の中に組み込まれているように思えます。何とも余韻のしっかり残っている同窓会でした。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

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「黙示録から創世記へ」2016年6月13日(月)

N.T.ライトというイギリスの新約学者の著書を訳出(『クリスチャンであるとは』)したり、他の著書に当たったり、講演のビデオを観たりしているなかで、このライトという人が、聖書全体を説明するときにしばし、黙示録から始まって創世記に戻って説明していることに驚かされます。新鮮であるのと同時に、聖書全体の流れが鮮明に浮かび上がってくるからです。

黙示録に関しては、もしかしたら随分偏った理解をしてきたように思います。黙示録とは単に千年王国に関する解釈が中心のように思ってきたところがあるからです。そうではないのだろうと思っても、それ以外の手だてを持っていませんでした。確かによく読むと、千年王国は20章で部分的に語られているだけなのです。

ライトという人は対照的に、黙示録の21章と22章と創世記の1章と2章が対応していると観ています。すなわち、聖書の終わりの2章と最初の2章が呼応していると観ているのです。別の言い方では、聖書の終わりの描写は、その初めに定めたことの成就と観ることです。さらに言い方を変えると、新しいエルサレムはエデンの園の再現となります。

確かに新しいエルサレムの都の真ん中を流れる川は、エデンの園を流れる川を思い出させます。その川の両岸にはいのちの木が植えられるのですが、それはエデンの園の中央のいのちの木の再来なります。何よりも、罪のゆえに人はその園から追放されたのですが、神はもう一度人をその園に戻すことを考えているのです。すなわち、創造の神の意図は決して消えることなく、最後に確実に成就するのです。

『クリスチャンであるとは』を読んでいただいた方は、11章「礼拝」でN.T.ライトが黙示録4章と5章から礼拝の姿を描いていることを思い起こされるでしょう。そこでは造られたものすべてが神を讃えていきます。万物が神に帰るのです。人間だけではないのです。それはまさに全地万物の創造の目的が完成するときです。

このように目標が明確にされるときに、そこに至るまでの歩みが浮き彫りにされて来ます。すなわち、出発点からどのように離れ、どのような歩みをしていて、それに対して神の最初の意図はどのように実現されていくのか、その道筋が明らかになります。アブラハムの祝福も、出エジプトも、モーセの律法も、ダビデの王国も、バビロン捕囚も、そしてイエス・キリストの十字架と復活も、神の永遠の愛の現われとして浮び上がってきます。

さらにライトという人で驚かされるのは、創世記で神のかたちに造られた人の責任が、実は黙示録で再度明確にされていることを強調していることです。エデンの園でも新しいエルサレムでも人の務めは変わらずにあるのです。神の造られたすべてを支配することと、新しい天と新しい地で治めることです。その務めが出エジプトで「王なる祭司」と明確に規定され、黙示録で繰り返されているのです。

単に信じて救われたら天国に行くと言うことでは終わらないのです。天国に行くためにどうしたらよいのかということより、造られた目的ため、また万物の目標に向かって、少なくとも今生かされている務めを少しでも果たすことに思いが向いていきます。神が人を造られた目的とアブラハムと契約を結ばれた意味が今でも生きているからです。

黙示録から遡りながら、創世記の最初の意図に触れ、さらにその途上での人間の責任を取り上げてくるライトという人の聖書理解に、何とも唸りながら納得しています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

「祝福の継承を担って」2016年6月6日(月)

 長男家族と長女家族がシカゴ郊外に住んでいて、カリフォルニアから三日のドライブをして訪ねています。荒地のネバダ州、塩の海のユタ州 、雄大な自然のワイオミング州、延々と続くトウモロコシ畑のネブラスカ州、そして田園風景のアイオワ州を横断して6人の孫たちに会いに来ています。

 最初に長女家族のところに滞在して4人の孫の一人の誕生日を祝いました。長男家族も集い、ワシントンから次女も飛んできて、一年ぶりに家族全員が集いました。そして先週から長男宅に来ています。今週末には妻の東久留米のCAJの同窓会がピッツバーグであります。

 先週の水曜の夜に、長男家族が集っているアッセンブリー教会で、夏休みを前にこの一年の子どもプログラムの終了式がありました。100名以上の子どもたちとその親たちが集まっていました。担当の牧師が、子どもたちへの祝福の継承の大切さを語っていました。アブラハムの祝福はアブラハムのためではなくて子孫と地のすべての民のためであるという視点を、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』から教えられていましたので、なるほどと思って聞いていました。

 この牧師が全員の子どもたちを講壇に集めて祝福の祈りを捧げるときに、親たちをも子どもたちの回りに促して、一緒に祈るように仕向けました。その牧師は祈りでも子どもたちが神の民として成長して神とこの世に仕えていくことを強調していました。しかもその役割として「王なる祭司」として召されていることを語っていました。「王なる祭司」とはまさに私もN.T.ライトを通して聖書全体に貫かれている神の民への召しと教えられていたことでした。

 昨日礼拝に伺いましたら、入り口でこの牧師が教会の方々と立ち話をしていたので、タイミングを見計らって話しかけました。「王なる祭司」という表現を祈りのなかで使われましたが、私はN.T.ライトからそのテーマについて教えられましたと言いましたら、ご自分もそうだということで意気投合しました。数年前にN.T.ライトがホイートン大学で講演したときにも聴きに行ったと言うことです。

 「王なる祭司」というテーマは実はN.T.ライトのもう一つの本 After You Believe で詳しく語られています。『クリスチャンであるとは』の最後の方で真の人間としてのあり方を取り上げていて、その具体的な生き方として「王なる祭司」の務めが与えられているというのです。関心があって勝手に訳しだしているのですが、この牧師も After You Believe を関係者との学び会で読み合ったと言うことでした。

 「王なる祭司」の表現は出エジプト、1ペテロ、そして黙示録で使われています。神の祝福を全地にもたらす具体的な役割を担っていることが聖書全体のテーマなのです。最も具体的にイエスにおいて成就され、私たちにもその役割がゆだねられているのです。しかも世代に渡って貫かれている役割です。

 6人の孫のうち4人がすでに小学生になっています。それぞれ性格もはっきりしてきています。将来どのようになるのかは本人たち次第ですが、祝福をさらに次の世代と多くの人に届けていく責任は、アブラハム以来受け継がれていかなければなりません。そのために祈っていく責任はこれからも続きます。孫をいただいている責任です。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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