「二人のクリスチャン哲学者」2023年1月30日(月)

 高校生の時に信仰を持って大学に入って、仲間とクラーク聖書研究会を始めてから今に至るまで、神は二人のクリスチャン哲学者を私のために備えてくださいました。一人は故大村晴雄先生で、もう一人は千葉惠先生です。大村先生は2016年に105歳で召されました。そして入れ替わるように千葉先生とは2014年にそのクラーク聖書研究会の50周年記念会でお会いしたのです。

 クラーク聖書研究会はまだKGKには属していなかったのですが、八王子のKGK全国集会に参加したときに、大村先生は当時都立大学の近世哲学の教授で、長老派の説教長老でもあられました。静かな佇まいで知性に満ちた顔立ちをされ、澄み切った信仰と開かれた心を感じ取りました。不思議に私自身も哲学に関心を持って、大学でハイデガーを学び始めていたときに、近世哲学史の特別講義に来られたのです。長い間思索してこられたことが静かに湧きでるような情熱を感じたのを覚えています。北栄キリスト教会の礼拝にお連れすることもできました。

 神学校に入ってから大村先生の大学のカルヴィンの『キリスト教綱要』をラテン語で読むゼミに参加させていただきました。お宅にもお伺いして、先生のお父様からの信仰の歩みも伺うことができました。のちにその神学校で私自身も神学を教えることになり、大村先生を 「日本キリスト教史」の特別講義の講師としてお招きできました。植村正久や内村鑑三の神学的な立ち位置を静かに情熱をもって語ってくださいました。

 来日の度に、奥様を先に亡くされお一人住まいのお宅に伺いました。お別れするごとに玄関の外で手を振ってくださいました。施設に入られてからも仲間とお伺いいたしました。「上沼さん、今何を勉強しているの」という問いを受けたのです。「先生は、何を勉強されているのですか」と逆に伺ってみました。子供さんに聖書を読んでもらって考えているということでした。
 
 仲間と施設に伺う予定の前日に召されたことを知りました。お子様のお宅での対面が許され、お別れをしました。それでもその後も仲間と 「故大村晴雄先生記念勉強会」をパンデミックで動きがとれなくなるまで続けました。

 千葉先生との出合いはすでに記してきたのですが、クラーク聖書研究会の50周年記念会の講演に招かれ、ローマ書3章22節の 「イエス・キリストのピスティス」を、従来の 「イエス・キリストを信じる信仰」から 「イエス・キリストの信実・真実」と理解する方向に傾いていることを話しました。講演を終えて千葉先生に挨拶に伺ったときに、その 「イエス・キリストの信実・真実」の 「の」 を、私は主格的属格と紹介したのですが、開口一番それは 「帰属の属格」 であると情熱がほとばしる感じで語ってくださいました。端的に 「それはどういうこと」と、その真意を知りたくて、その後日本に来る度に研究室に伺うことになったのです。

 お話を伺いながら、先生より10歳上なのですが、そのほとばしり出る情熱がどこから出てくるのだろうかとと知りたくなりました。情熱の背後に確かな知性を感じるのです。分かってきたことは、ローマ書の解明が中心なのですが、そのテキストを一語一語読み解いていく手立てとして、アリストテレスの万物と魂を読み解き、記述する手法を手がかりにされていることが分かり、驚嘆させられました。

 特にローマ書3章21-31節の箇所の解明のために、オックスフォード大学に渡ってアリストテレスで博士号を取得され、大学の講座でローマ書とアリストテレスをテキストとして取り上げてこられたことを知り、ローマ書は哲学のテキストにもなることに感銘いたしました。そして、ローマ書のテキストの読みを意味論的分析として展開しているです。

 その意味論的分析の一つの例として、ローマ書8章10節での 「霊」 を「神の霊」ととるのか「人の霊」ととるのかという議論があります。新改訳2017では 「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでも、御霊が義のゆえにいのちとなっています」 と訳して、脚注で別訳として 「霊は義のゆえにいのちとなっています」 としています。これに対して 「信の哲学」 は、「キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である」 として、特にギリシャ語表現での二つの接続詞による「かたや(men)、、、他方(de)、、、」 という対比を見逃していないのです。パウロが 「身体」 に対応する 「霊」 ととっていることが明らかになります。

 このようなローマ書のテキストの読みに目が開かれて、一度ローマ書の解明は諦めたことがあるのですが、この歳になって再度原典に戻って挑戦をしています。大村先生は信仰と哲学は矛盾しないと良く言われていました。千葉先生は「信の根源性」を提唱し、アリストテレスも届き得なかった心魂の内奥を、ローマ書7章の終わりの 「内なる人」 「ヌース」 「霊」の理解を中心に観ているのです。それぞれ、哲学の限界を見極めておられます。それは自由を与えてくれます。

 上沼昌雄記

「何を読んでいるのか?」 2023年1月24日(火)

 巣籠もりが続いていることを前回書きました。時間が十分あるようで、それでいてあっという間に過ぎてしまうこともあります。先日ある記事をコンピュータで読んでいたときに、妻が「何を読んでいるのか」と聞いてきました。千葉先生が年明けに送ってくれた「平和をつくる二種類の正義ー南原繁『国家と宗教』を手がかりに」を、一生懸命読んでいたのです。

 その「何を読んでいるのか」という単純な質問を、まさに千葉先生との関係で以前に妻から受けたことを思い出したのです。すでに先生の40年の研究の集大成である『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』(上下巻)は2018年に刊行されているのですが、その前にその原稿本をいただいて家に持ち帰って、一冬一生懸命に読んでいたときに同じ質問を受けたのです。

 そしてその内容というか、ポイントを説明することになり、妻もその重要性を確認することになりました。折あるごとに、時には散歩をしながらも、「信の哲学」の根拠と言えるローマ書3章21-31節の意味論的分析、すなわち、神の側の言語網としての神の義のイエス・キリストの信を介しての啓示と、それを受け止める「肉の弱さ」を抱える私たち人間の信仰の両面のことを説明することになったのです。

 そしてあるときに息子の義樹にも説明することになりました。彼の仕事の出張で4時間ドライブをして出かける時に、ドライブを助けるという名目で、同乗することになったのです。車中で、そしてホテルで、ローマ書3章21-31節の理解の大切さを説明しているときに、特に3章22節で「イエス・キリストの信(faithfulness)」と捉えることで、その意味合いは信仰生活の全面に関わることに彼が気づき、The Faithfulness Projectとして、ミニストリーの一環を担うことになったのです。

 彼の主導でこのプロジェクトのウエッブサイトの第一弾がほぼでき上がってきました。導入の部分と「聖書」と「生活」と「教会」と「世界」の四つの面でのFaithfulness(真実・誠実)の意味を、義樹がビデオで説明しています。次の段階として千葉先生と私が、どのように出合ったのかを含めてその意味合いをさらび説明するビデオ撮りが待っています。その段取りも千葉先生とズームで話し合っています。

 それで先の千葉先生から年明けに送られてきた記事を読んでいたときの「何を読んでいるのか」の妻の質問に、その記事の内容を説明することになったのです。端的にローマ書3章21-31節で析出される「イエス・キリストの信」が、国家と社会にどのような接点を持ち、どのような意味合いを持ってくるのかを私なりに説明したときに、それは今回のプロジェクトの「教会」と「世界」のことにそのまま関わると言ったのです。まさにその通りなので、その意味合いを義樹にも伝えたのです。

 そして何よりも千葉先生の記事を一生懸命に読んでいたのは、ドイツでそれなりの神学者たちがどのような聖書理解でナチスに従ってしまったのかと言う問いを持っていた時でしたので、信の哲学が国家や社会にどのような意味合いで接点を持つのかを知りたかったのです。まさに「イエス・キリストの信」を介しての「神の義」の啓示は、神の民の歩みのすべてに関わることで、パウロ自身がローマ書の9章以下でイスラエルの民のことに関わる道筋になっているのだろうと思います。
 
 何よりも、南原繁は東大の総長もされた方で、無教会の信者でもありました。千葉先生が先輩にもなる方の書を取り上げて論を展開していることを、うらやましく思いました。どちらかというと、一つのグループで先達が出した方向にさらに議論を展開することのできない雰囲気の中で、それこそ聖書を基に議論を展開していることに勇気づけられます。

 上沼昌雄記

「巣籠もり3年」2023年1月16日(月)

 3年前のこの冬の時期の前に日本での秋の奉仕を終えて戻ってきてから、コロナ感染が世界中に拡大していきました。さらに札幌の雪祭りに海外の旅行者が大勢押し寄せ、その後札幌でも感染が広がっていったのを思い出しました。それからすでに3年経ちました。日本では第八波の感染で亡くなる人の90%以上が70歳以上の人というニュースに接して、さらに巣籠もりの長期化を覚悟しないと行けないのかと言い聞かせてもいます。

 私たちは礼拝にも続いて電話回線で参加しています。外出しても人との距離的な接触をできる限り避けています。スパーでの買い物と郵便局での私書箱のチェックにはマスクをしています。それ以外は幸いにアマゾンを通して手に入るので、生活は支障なく続いています。私自身が外から菌を運んでくることにならないようにも気をつけています。できるときには夫婦で近所の散歩は欠かさないようにしています。近隣の人たちとの立ち話を楽しみにしています。この暮れから雨降りの日が続いていますが、晴れ間を見つけて、下方にある渓流がいきよいよく流れていることを確認しました。

 巣籠もりに慣れたのか、この歳になっているからなのか、家で自分の関心事に沿って本を読んだり、調べたり、それを文章にすることで、一日があっという間に過ぎてしまいます。昨年の半ばには、千葉先生の「信の哲学」に刺激されて、ローマ書3章21-31節のテキストを原典で確認しながら、贖罪論についてこの欄でいくつかの記事を書きました。それをまとめてみたいと思っています。

 暮れにかけてその千葉先生の著書『信の哲学』下巻の最後の章でハイデガーの哲学が取り上げられていることを再確認し、その関わりで今まで自分なりに考えてきたことを振り返る作業に戻されています。と言うのは、高校生の時にスイスからの宣教師を通して故郷前橋で信仰を持って、大学に入ってハイデガーの哲学を専攻したことの意味を自分なりに問い直すことになったからです。と言うのは、信仰者としてハイデガーの世界には違和感なしについて行けたことが、90年代を境に居心地が悪くなったからです。

 それで今まで書いてきた「神学モノローグ」と「ウイクリー瞑想」を紐解く作業を始めました。その作業をしながら、これは自分が年をとってきて懐古調になったからだからなのかと自問もしました。確かにそうなのでしょうが、過去のものを紐解いてそのつながりを確認していくのは、またそれなりの作業でもあります。さらに折角確認しているので、今までの記事を基にそのつながりを、その都度のステージを確認する意味で文章でまとめています。それも大変な作業でですが、チャレンジでもあります。

 具体的にハイデガーの対極に位置するユダヤ人哲学者でタルムードの学者であるレヴィナスのことに一生懸命に関わった時期、隠れユダヤ教徒である「マラーノ」のことに関する書籍を読んで文章にしてきた時期のことを、一連のこととしてまとめる作業なのです。そして何と言ってもそれは、ハイデガーの哲学がナチスを容認することになった背景を少しでも探りたいからです。

 同時に私たちにはキッテル辞典として有名はキッテルも、ルター神学者のポール・アルトハウスもナチスを容認していたのです。ナチスを容認する神学がどこから出てきているのか知りたいのです。それは今の時代にも似たようなことが起こっているからです。どのようななるのか分からないのですが、そんな作業を雨降りの日々、考えながら過ごしています。巣籠もりの功罪なのでしょう。

 上沼昌雄記

2023年 謹賀新年

主にある友へ、
 謹賀新年、本年もどうぞよろしくお願いいたします。こちらは暮れから雨降りの日が続いています。平地は洪水、高地は大雪です。暮れにかけて今まで自分なりに考え、文章にしてきたことを振り返ることになりました。大まかには聖書成立以降のユダヤ人の歩みに関するものです。特にユダヤ人哲学者でタルムードの学者であったレヴィナスの「他者」を視点にして存在を見直していく作業に惹かれ、また、私自身が信仰を持つことなった契機にも触れることになったことを17年前に記しました。ここに再録させていただき、新年の挨拶といたしますことをお許しください。新しい年、皆様の歩みの上に豊かな祝福をお祈りいたします。2023年1月9日(月)

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<神学モノローグ「存在することの恐怖と静かなる神」2006年9月18日

 ホロコストを戦争捕虜のゆえに生き延びたレヴィナスは後年になって 「存在への敬意」を説いているが、捕虜生活を終わって家族と親戚のほとんどがホロコストで亡くなったことを知ったあと、1947年に出した『実存から実存者へ』では、「存在することの恐怖」を語っている。どうにもならないほど自分が存在していることにためらいと恐れである。夜とか闇とか死とか戦争とかが存在にとって恐ろしいのではなくて、存在すること自体が恐ろしいのだという。

 この書物はすでに捕虜のなかで書かれていたものであるが、「存在することの恐怖」は子どもの頃から胸に秘められていたものであったという。それがホロコストを通して消すことのできな事実となった。眠られ ない夜に、私でも、家族でも、世界でもなく、ただ<ある>という無名 の沈黙の響きがどこからともなく届いてくる。「<ある>がそっと触れること、それが恐怖だ。」死への不安ではなくて、<ある>という無名性への恐怖である。私の存在を消してしまうただ<ある>というおぞましさである。

 フッサールの現象学は、外の世界のあることへの意識と意識している自分を出発点としている。それは理論化も概念化もできない私という存在を浮き彫りにする。ハイデガーはその存在を現存在として捉えていく。すなわち私の実存の現象学である。フッサールを根拠にし、ハイデガーに共鳴しつつも、レヴィナスは私の実存より先に、すなわち、私の存在が意識にのぼる前に、ただ<ある>という無限定な、不確定な重苦 しい気配を感じ取っている。

 昼には私は生きているを知っている。私にはミニストリーという仕事があり、コンピュータに向かいメールを書き、記事を書く。妻と話をし、家族と話をし、人と会話をする。私の存在を私は意識している。それで安心感を得る。掛け替えのない自分であると自分に言い聞かせる。 しかし不眠の夜はそんな自分は助けてはくれない。私といいう主体は消えてしまう。ただ暗闇に覆われ、無名の実存がうごめいていることに気づく。ただ<ある>ということ、明日もまた生けなければならないということ、その重荷に疲れ果てる。

 レヴィナスはこの思いを子どもの頃から胸に秘めていたという。ただどうにもならないほどに世界が存在し、私も存在しなければならないという恐れである。生き続けなければならないという恐怖である。ホロコストがあっても生き続けなければならないのである。そんな<ある>の不気味さを語っていながら、その<ある>をも支えている神への信頼は一点の疑いもないほど澄み切っている。それは光りである。その光りが あるので、私は「影」をいただいて生きることができる。

 小さいとき家の外からはるか北に見上げる赤城山の夕陽に照らされたすそ野を眺めて、当然私とは関係なしに<ある>ことが存在していることに少なくともためらいと恐れを覚えた。私は家に入って夕食を食べ、宿題をしてということでそんな思いはすぐに消えてしまったのであるが、いままたレヴィナスを読みながらそのときの思いがよみがえってくる。そのためらいと恐れはしかし何度もよみがえってくる。ワイオミングの大自然に触れたときもそれがよみがえってきた。自然への驚異ではない。私とは全く関係なく大地があり、天空があり、世界があるという無名の「存在することの恐怖」である。

 赤城山はその名の通り、夕日に映えてすそ野が赤くなる。そのすそ野が長く伸びているのが赤城山の特徴である。そのすそ野をはうように空っ風が吹き下りてくる。その空っ風に向かいながら自転車をこいで高校から帰る途中に宣教師館があった。そこでのバイブルクラスを通して信仰を持った。神はどのようなことがあっても「在って在る者」として存在しておられる。静かに存在しておられる。

 レヴィナスの存在への恐れは、私のなかで起こった存在への最初のためらいを新鮮なものとしてよみがえらせてくれた。そのためらいが静かに存在しておられる神への信仰をもたらしてくれたのかも知れない。上沼昌雄記>