高校生の時に信仰を持って大学に入って、仲間とクラーク聖書研究会を始めてから今に至るまで、神は二人のクリスチャン哲学者を私のために備えてくださいました。一人は故大村晴雄先生で、もう一人は千葉惠先生です。大村先生は2016年に105歳で召されました。そして入れ替わるように千葉先生とは2014年にそのクラーク聖書研究会の50周年記念会でお会いしたのです。
クラーク聖書研究会はまだKGKには属していなかったのですが、八王子のKGK全国集会に参加したときに、大村先生は当時都立大学の近世哲学の教授で、長老派の説教長老でもあられました。静かな佇まいで知性に満ちた顔立ちをされ、澄み切った信仰と開かれた心を感じ取りました。不思議に私自身も哲学に関心を持って、大学でハイデガーを学び始めていたときに、近世哲学史の特別講義に来られたのです。長い間思索してこられたことが静かに湧きでるような情熱を感じたのを覚えています。北栄キリスト教会の礼拝にお連れすることもできました。
神学校に入ってから大村先生の大学のカルヴィンの『キリスト教綱要』をラテン語で読むゼミに参加させていただきました。お宅にもお伺いして、先生のお父様からの信仰の歩みも伺うことができました。のちにその神学校で私自身も神学を教えることになり、大村先生を 「日本キリスト教史」の特別講義の講師としてお招きできました。植村正久や内村鑑三の神学的な立ち位置を静かに情熱をもって語ってくださいました。
来日の度に、奥様を先に亡くされお一人住まいのお宅に伺いました。お別れするごとに玄関の外で手を振ってくださいました。施設に入られてからも仲間とお伺いいたしました。「上沼さん、今何を勉強しているの」という問いを受けたのです。「先生は、何を勉強されているのですか」と逆に伺ってみました。子供さんに聖書を読んでもらって考えているということでした。
仲間と施設に伺う予定の前日に召されたことを知りました。お子様のお宅での対面が許され、お別れをしました。それでもその後も仲間と 「故大村晴雄先生記念勉強会」をパンデミックで動きがとれなくなるまで続けました。
千葉先生との出合いはすでに記してきたのですが、クラーク聖書研究会の50周年記念会の講演に招かれ、ローマ書3章22節の 「イエス・キリストのピスティス」を、従来の 「イエス・キリストを信じる信仰」から 「イエス・キリストの信実・真実」と理解する方向に傾いていることを話しました。講演を終えて千葉先生に挨拶に伺ったときに、その 「イエス・キリストの信実・真実」の 「の」 を、私は主格的属格と紹介したのですが、開口一番それは 「帰属の属格」 であると情熱がほとばしる感じで語ってくださいました。端的に 「それはどういうこと」と、その真意を知りたくて、その後日本に来る度に研究室に伺うことになったのです。
お話を伺いながら、先生より10歳上なのですが、そのほとばしり出る情熱がどこから出てくるのだろうかとと知りたくなりました。情熱の背後に確かな知性を感じるのです。分かってきたことは、ローマ書の解明が中心なのですが、そのテキストを一語一語読み解いていく手立てとして、アリストテレスの万物と魂を読み解き、記述する手法を手がかりにされていることが分かり、驚嘆させられました。
特にローマ書3章21-31節の箇所の解明のために、オックスフォード大学に渡ってアリストテレスで博士号を取得され、大学の講座でローマ書とアリストテレスをテキストとして取り上げてこられたことを知り、ローマ書は哲学のテキストにもなることに感銘いたしました。そして、ローマ書のテキストの読みを意味論的分析として展開しているです。
その意味論的分析の一つの例として、ローマ書8章10節での 「霊」 を「神の霊」ととるのか「人の霊」ととるのかという議論があります。新改訳2017では 「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでも、御霊が義のゆえにいのちとなっています」 と訳して、脚注で別訳として 「霊は義のゆえにいのちとなっています」 としています。これに対して 「信の哲学」 は、「キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である」 として、特にギリシャ語表現での二つの接続詞による「かたや(men)、、、他方(de)、、、」 という対比を見逃していないのです。パウロが 「身体」 に対応する 「霊」 ととっていることが明らかになります。
このようなローマ書のテキストの読みに目が開かれて、一度ローマ書の解明は諦めたことがあるのですが、この歳になって再度原典に戻って挑戦をしています。大村先生は信仰と哲学は矛盾しないと良く言われていました。千葉先生は「信の根源性」を提唱し、アリストテレスも届き得なかった心魂の内奥を、ローマ書7章の終わりの 「内なる人」 「ヌース」 「霊」の理解を中心に観ているのです。それぞれ、哲学の限界を見極めておられます。それは自由を与えてくれます。
上沼昌雄記