「ユーレカ(見つけた!) パート2」2019年8月30日(金)

 このタイトルの記事を昨年の2018年5月8日に書きました。ユーレカ(見つけた!)は完了形なのですが、ローマ書7章21節で現在形として使われていることを中心に取り上げました。今回はパート2なのですが、そのユーレカ(見つけた!)が完了形分詞として使われている箇所に遭遇したのです。まさに「見つけた」のです。4章1節です。
 パウロは3章まで語ってきて、4章に入ってアブラハムのことをその傍証と言ったら良いのか、証拠と言ったら良いのか、ともかくそれまで語ってきたことがすでにアブラハムで知ることができると見ているのです。その出し方も何とも興味深いです。「肉による私たちの父祖アブラハム」とあえてえ「肉による(kata sarka)」と断っています。この手紙の初めでイエスのことを語っているときもダビデの子孫であることを「肉によれば(kata sarka)」と言い表しています。その折りに「霊によれば(kata pneuma)」として神の御子の復活を語っているのが分かります。そうするとここでも「肉による私たちの父祖アブラハム」と断っているのは、「霊による私たちの父祖アブラハム」の可能性も示唆しているかのようです。そんな想像が働きます。
 そのアブラハムが「発見していたこと」が何かあったと、注意を向けていることが分かります。すなわち、アブラハムのことが、すでに「イエス・キリストのピスティス」によって出てきたことと結びつくことがあると、私たちの注意を向けようとしているのです。しかも文字通りに「アブラハムがすでに発見していたこと」というのです。パウロが3章でそれこそ注意深く摘出したことを、パウロは遠慮なしにそれはすでにアブラハムが「発見していたこと」だと結びつけるのです。
 この「見つけた(ユーレカ)」の表現は結構身近なことなのです。私たちが住んでいるカリフォルニアはこのユーレカという街や通り道が結構あります。辞書によれば、「Eureka(エーレカ)はギリシャ語に由来する感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされる言葉である」とあります。素晴らしい意味合いの表現ですが、ここカリフォルニアでは1849年のゴールドラッシュで、金を「見つけた!」という感嘆詞が由来となって使われています。探し求めていたものをようやく見つけ出した時の喜びがこの言葉にはあります。
 パウロもこの古代ギリシャ人の発見者の喜びをアブラムのなかに感じ取って、このように表現しているかのようです。そのような意味合いが響いてきます。つまり、アブラハムが発見していたことをパウロも発見して喜んでいるかのようです。それで「そのことについて私たちは何を言えるのでしょうか」と、問いかけているのです。それは何とも上手な誘いです。手紙を読んでいる人も「何を」と知らないうちに誘われてしまいます。4章はまさにその展開です。
 実は千葉教授の「信の哲学」はこの発見者の喜びの書と言えます。従来のローマ書の訳と理解ではどうしても不明瞭な部分が残ってしまうことに対して、アリストテレス自身がその手立てとした「美しく問う」姿勢をそのままローマ書に適用して、「発見的探求論」として展開されています。パウロが発見したことはすでにアブラハムが「発見していたこと」であって、その流れを「信の哲学」も「見つけた!」と叫んでいるかのようです。それを手がかりにこの私も今まで不明瞭であったところが明らかにされることで、発見者の喜びに多少与っています。
 上沼昌雄記

「信仰によって?」2019年8月21日(水)

 2年ほど前に「御霊に導かれて?」(2017年9月4日)という記事を書きました。そのタイトルに疑問符を付けるこちら側が疑問視されそうなことですがと、断りを入れて書きました。今回のタイトルも「信仰によって?」と疑問符を付けることになりました。今回は、「信仰によって」と当たり前のように訳されているローマ書3章の終わりの箇所が、テキストではかなり微妙というか、厳密な表現が使われているので、それで良いのかと思って疑問符を付けました。
 3章30節で新改訳2017は、「神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです」と、「信仰によって」が繰り返されています。しかし前者ではek pisteosとなり、後者ではdia tes pisteosと使い分けられています。パウロはそれはかなり気をつけて使い分けているように思えるので、気になるのです。すなわち、前置詞が異なっていて、しかも後者では「信仰」に定冠詞が付いているのです。その前の28節では「人は、、、信仰によって義と認められる」と訳としては同じなのですが、ここでは前置詞もなく名詞の与格で表現されています。
 28節はそのままにして、30節の二つの表現の違いをどのように捉えたら良いのか、何とも気になるのです。前者でのek pisteosは、実は26節でton ek pisteos Iesuとして出てきています。新改訳2017はあたかも当然のように「イエスを信じる者」としています。しかし「信の哲学」の千葉訳では、4章16節のto ek pisteos Abramが同じ表現形式であることに注目して、<アブラムを信じる者>とは言えないので、「イエスの信に基づく者」としています。新改訳2017は「アブラハムの信仰に倣う人々」としていますので、少なくとも「イエスの信に倣う者」と捉えて良さそうです。
 そのことを補うかのように、後者のdia tes pisteosでは前置詞がdiaに代わり、「信仰」に定冠詞が付いてくるのです。文字通りには「その信仰を介して」となるのでしょう。そして当然「その信仰」とは、と考えて良いわけです。そしてテキストの読みからは22節のdia pisteos Iesu Xristuに結びつくのが理に適っていると言えます。同じ前置詞のdiaが使われていて、「イエス・キリストのピスティス」となりますので、定冠詞はこの「イエス・キリストの」を指しているととるのが自然です。
 新改訳2017はここでも「イエス・キリストを信じる信仰によって」と本文でなっていますので、その後の微妙な表現を無視してと言うか、その違いを見抜けなくて、単純に「信仰によって」と画一的に訳しているかのようです。協会共同訳は、22節を本文で「イエス。キリストの真実(ピスティス)によって」としていますので、30節の定冠詞付きのピスティスがこのピスティスを指していると捉えることができたらば、30,31節の訳語も変わってきたように思います。特に25節でのdia [tes] pistesを「真実のよる」とし、26節のton ek pisteos Iesuを「イエスの真実に基づく者」としていますので、多少残念に思います。
 新改訳2017はどれも一律に「信仰によって」としています。パウロの厳密な表現の違いを見抜けていないとしか言えそうもありません。その理解の行き着くところは「私たちの信仰」「自分の信仰」が中心になり、自分たちの信仰の把握でことが決まってしまうかのようになります。どうしても排他的になります。
 「私たちの信仰」の前に「イエス・キリストのピスティス」があるのです。22節でも「信じる者すべて」と二段構えで言っているとおりです。ですから「私たちの信仰」は、「イエス・キリストのピスティス」を介して、さらにそれに基づいているのです。新改訳2017を使うことが私たちの間では多いので、それこそ原典にもう一度戻って確認いただければと思わされて、「信仰によって?」に疑問符を付けたのです。読者のご意見を伺えれば幸いです。
 上沼昌雄記

「パウロの頭の中は?!」2019年8月12日(月)

 今週は日本ではいわゆるお盆休みで、帰省されている方また旅に出ている方も多いことと思います。同時に大型台風も近づいているようですのお気を付けください。私たちは先週叔父の葬儀があり、ロス郊外に出かけ、母にも会ってきました。今月の最後の週には、シリコンバレーの近くに引っ越しした姪と二人の子供と一緒に母に会いに出かけることになっています。
 この2年のうちに二つの邦訳聖書が新しくなりました。『新改訳2017』と『協会共同訳』です。そしてその前に「信の哲学」における千葉訳のローマ書がでています。それでギリシャ語のテキストを確認しながら、それぞれの訳と睨めっこしています。結果的にパウロの意図というか、思索を知りたくて、ローマ書を通して「パウロとの対話」を勝手に始めています。
 それで3章の10節から18節で、その前に語っていることに対して、旧約聖書を連続して引用している箇所で、パウロの頭の中はどうなっているのかと、単純に驚きました。詩篇やイザヤ書から7箇所ぐらいにわたって引用するのです。しかもそれがあたかもひとつのつながりをもっていて、しっかりと筋が通っていて、淀みのないひとつの文章のように語るのです。新改訳2017はそれぞれの引用を括弧でくぐるのですが、協会共同訳は括弧一つでまとめています。
 旧約聖書をこのように自由奔放に引用できるパウロさんの頭の中はどのようになっているのか、ただただ驚きです。当然記憶しているのでしょうが、それでも7箇所ほどにわたっても、あたかもひとつの流れをもって語れるのは驚異です。自分にはできないことです。それなりに聖書を学んでいるのですが、パウロのように幾つもの文章を記憶していて、テーマに沿って自由に引用することはできません。
 今では聖書が書物として与えられているので、記憶を辿って何とか必要な箇所にたどり着くか、コンコルダンスという便利なものがあって、聖書の用語や句を検索することができて、それでなんとかと必要な箇所にたどり着けます。自分が勉強したときにはそれらは分厚い書物としてあったのですが、今では聖書も注解書もコンコルダンスもコンピュータに入っていて、しかも最近ではスマホをいう電話機に入っていて、どこででも見ることができます。
 それで便利になったのは確かですが、その分逆にパウロがこの箇所でそんなものの何もない状態で、旧約聖書から自由に引用しているのは、それこそそのすべてが頭の中に入っていることを示していることになります。逆にコンピュータやスマホに入っているというのは、こちらの頭には入っていないことを意味しているわけで、頭に入っているのは、残念ながら、コンピュータやスマホからのどうでも良い情報だけです。それだけ心はこの世のものに支配されていることになります。
 パウロの頭は、文字通りに、神のことばが信任されて委ねられている状態なのでしょう。実際に今までのこの手紙の内容も、直接旧約聖書の引用はしていなくても、律法のこと、割礼のこと、イスラエルの民がして来たことが元になって語っていることが分かります。そのことと福音を対比して、どのように結びついているのかを展開しています。それは誰でもできることではありません。パウロに委ねられたことです。それを見事に果たしています。
 しかし、それは簡単なことではなくて、熟考を重ねて、細心の注意を払っているのが分かります。すでに福音も伝えられていたのですが、福音による自由が、具体的に割礼のことでペテロとも異なった態度をとることになったことも背景にあったわけです。さらに中傷もされていたのです。また哲学者たちと議論をしなければなりませんでした。そのようななかで福音を説明していくことに、パウロが精神と思考を集中していることが分かります。そのことに少しでも寄り添えればと願っています。
 上沼昌雄記

「神に振り回される人生ありき」2019年7月31日(水)

 過ぎる2月25日付けで8年目に日の目を見ることになった拙書『怒って神にーヨナの怒りに触れて』が、感謝なことに初版が売り切れ、残念なことに校正漏れもあり、出版社が再版という配慮でこの7月25日付けで新たに刊行してくださいました。その新しい版が一昨日届き、もう一度新しい思いで読み直しました。
 読みながらこの3月と4月の日本での奉仕の間で、この本を読んでくださった方々と交わした会話を思い出しました。その話の結論のように、私たちも「神に振り回される人生ありき」で良いのですよねと互いに納得したものでした。それでどこかで神への怒りを持ったとしても、振り返ると、どこかで神の計画が実現されていることに頷くのです。当然その神への怒りにも似た思いの背後には、受け入れがたいほどの苦しみを経験しています。それでもどこかで神の計画の中でのことと受け止めることになるのです。
 そのようなこともあってこの秋の日本では、この本を一つの足がかりにして、ふたつほどのセミナーが計画されています。いま日本は猛暑続きで皆さんは大変なご苦労をされていると思います。守りをお祈りいたします。こちらはいつもよりは過ごしやすい夏を今のところ過ごしています。山火事の心配はいつでもあります。その中で誰もがどこかで「神に振り回される人生ありき」と思わされることを経験させられているのだろうと思いながら、さらに分かち合えればと思い巡らしています。
 友人のひとりが北大の千葉先生を「アリストテレス千葉先輩」と、私を「レヴィナス上沼先輩」と勝手に呼んで、楽しい記事を書いています。そのユダヤ人哲学者のレヴィナスを知ったことがどこかでヨナの怒りにも結びついていることに気づきました。レヴィナスもホロコーストの生き残りのひとりと言えるのですが、同じように生き残りの人の中には、そのことの故に不可知論者、無神論者になる人もいれば、自死する人もいました。レヴィナスはホロコーストは「無用な苦しみ」とまで言います。それでもなお神を信じるのです。その違いというか、境目はどこにあるのだろうか思わされます。
 レヴィナスはその哲学書で「意に反して」とか「身代わり」という表現を、人の根源的なあり方として語ります。それはイスラエルの民に「在留異国人、寡婦、孤児」を大切にするようにと言う神の律法の戒めによっているというのです。キリスト教を含めて西洋思想が自己満足的な存在理解に陥っていることへの警告でもあります。不信仰を正すためだけのヨナ書理解への警告でもあります。ヨナは「意に反して」遣わされ、「身代わり」のように海に投げ込まれるのです。しかしそのようにして神の計画が異邦の街ニネベで果たされるのです。その歩みをイエス自身が自分のことのように受け止めているのです。
 ヨナ書は、その意味で、神の計画の進展とそこでの人の格闘を語っている大切な書です。ヨナに寄り添うことで、神の民のひとりとしての歩みを確認することになります。たとえ「神に振り回される人生ありき」といえども、それで良いのだとヨナとともに受け止めることができます。そんな学びと確認をこの秋に一緒にできればと願います。
 上沼昌雄記