このタイトルの記事を昨年の2018年5月8日に書きました。ユーレカ(見つけた!)は完了形なのですが、ローマ書7章21節で現在形として使われていることを中心に取り上げました。今回はパート2なのですが、そのユーレカ(見つけた!)が完了形分詞として使われている箇所に遭遇したのです。まさに「見つけた」のです。4章1節です。
パウロは3章まで語ってきて、4章に入ってアブラハムのことをその傍証と言ったら良いのか、証拠と言ったら良いのか、ともかくそれまで語ってきたことがすでにアブラハムで知ることができると見ているのです。その出し方も何とも興味深いです。「肉による私たちの父祖アブラハム」とあえてえ「肉による(kata sarka)」と断っています。この手紙の初めでイエスのことを語っているときもダビデの子孫であることを「肉によれば(kata sarka)」と言い表しています。その折りに「霊によれば(kata pneuma)」として神の御子の復活を語っているのが分かります。そうするとここでも「肉による私たちの父祖アブラハム」と断っているのは、「霊による私たちの父祖アブラハム」の可能性も示唆しているかのようです。そんな想像が働きます。
そのアブラハムが「発見していたこと」が何かあったと、注意を向けていることが分かります。すなわち、アブラハムのことが、すでに「イエス・キリストのピスティス」によって出てきたことと結びつくことがあると、私たちの注意を向けようとしているのです。しかも文字通りに「アブラハムがすでに発見していたこと」というのです。パウロが3章でそれこそ注意深く摘出したことを、パウロは遠慮なしにそれはすでにアブラハムが「発見していたこと」だと結びつけるのです。
この「見つけた(ユーレカ)」の表現は結構身近なことなのです。私たちが住んでいるカリフォルニアはこのユーレカという街や通り道が結構あります。辞書によれば、「Eureka(エーレカ)はギリシャ語に由来する感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされる言葉である」とあります。素晴らしい意味合いの表現ですが、ここカリフォルニアでは1849年のゴールドラッシュで、金を「見つけた!」という感嘆詞が由来となって使われています。探し求めていたものをようやく見つけ出した時の喜びがこの言葉にはあります。
パウロもこの古代ギリシャ人の発見者の喜びをアブラムのなかに感じ取って、このように表現しているかのようです。そのような意味合いが響いてきます。つまり、アブラハムが発見していたことをパウロも発見して喜んでいるかのようです。それで「そのことについて私たちは何を言えるのでしょうか」と、問いかけているのです。それは何とも上手な誘いです。手紙を読んでいる人も「何を」と知らないうちに誘われてしまいます。4章はまさにその展開です。
実は千葉教授の「信の哲学」はこの発見者の喜びの書と言えます。従来のローマ書の訳と理解ではどうしても不明瞭な部分が残ってしまうことに対して、アリストテレス自身がその手立てとした「美しく問う」姿勢をそのままローマ書に適用して、「発見的探求論」として展開されています。パウロが発見したことはすでにアブラハムが「発見していたこと」であって、その流れを「信の哲学」も「見つけた!」と叫んでいるかのようです。それを手がかりにこの私も今まで不明瞭であったところが明らかにされることで、発見者の喜びに多少与っています。
上沼昌雄記