カテゴリー別アーカイブ: 村上春樹・体験

「村上春樹・体験—その4」2006年8月3日(木)

『ねじまき鳥クロニクル』

妻がある日突然自分の前から消えてしまう。家を出ていってしまう。その妻を見つけだす、取り戻すための闘いの物語がこの本である。最初に読んでともかくそのように思った。失ったものを買い戻す、救い出す、救済の物語である。まさに聖書の中心的なテーマである「買い戻す」「贖い出す」すなわち「贖罪」の物語である。大変なテーマを取り上げていると思った。

「買い戻し」のテーマは旧約聖書のルツ記である。モアブの女であるルツは夫に先立たれる。姑であるナオミに仕えるためにベツレヘムにやってくる。親戚であるボアズの畑で落ち穂拾いをする。そのボアズが「買い戻しの権利のある親戚」としてルツを妻に迎える。そこに生まれたのがオベデである。エッサイの父であり、ダビデの祖父になる。

そして新約聖書のマタイ福音書の最初のイエス・キリストの系図にルツの名が記されている。聖書は、神がそのひとり子であるキリストを贖いの代価として差し出さすことによって私たちをもう一度買い戻す物語である。

村上春樹は、聖書は全人類のオープン・テキストであるようなことを言っている。すなわち、人として直面するあらゆるテーマが聖書にすでに描かれていると見ている。だからといって答えがあると見ているわけではない。ただ人が直面するすべての課題が聖書に含まれていて、だれでもが聖書の世界と結びついてるという。そしていま小説家としてそのテーマを取り上げているのである。しかし、村上春樹が聖書のテーマを意識して書いたわけではないと思う。むしろ、彼が書かなければならないと思って書いたテーマが聖書のテーマに結びついていると言った方がよいであろう。

言い換えるならば、その結びつきを見ているの私の課題である。すなわち、聖書の中心的なテーマが村上春樹のなかで小説として取り上げられているとを見ている私自身の視点の問題である。そのように結びつけてよいのかを問うている私自身の課題である。その意味で私のなかの村上春樹体験である。

私たちを買い戻すために代価が支払われなければならないように、妻を買い戻すために流されなければならない犠牲があり、闘いがあり、血があるのである。この本はともかく、だれでもが直面する夫婦のことを聖書の世界にまで通じるほど深いレベルで取り扱っていることが分かる。場面は日本であり日本人のことでありながら、グローバルに読者をとらえていることが分かる。

最初のこの本のことを知ったときのことを思い出している。9年前に「いまの自分の心を一番よく語っている」と言って村上春樹の『国境の南、太陽の西』を送ってくれた人が、それに添えられた手紙か別なかたちでかは覚えていないが、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』のような本も書いていると言われたのを覚えている。その時の彼自身の状況のことを言いたかったのであろうかといまになって思い返している。それ以上のコンタクトを失ってしまったので想像してるだけである。当然彼も聖書のことは良く知っている。それにしても『国境の南、太陽の西』と『ねじまき鳥クロニクル』は著者がアメリカ滞在の間に前後して書いたものである。

 

夫婦のことが正面から取り上げられているのは『ねじまき鳥クロニクル』が始めてである。『国境の南、太陽の西』で夫婦というかたちで主人公が出てくるが、彼はまだメタフォリカルな意味での「一人っ子」を抱えたままである。自分の世界で堂々巡りをして抜け出せないでいる。妻にもどうしてなのだろうと問いかけることもしない。そんな自分にようやく気づくことで終わっている。

その前の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、主人公は離婚をしているがそのことの原因も意味を探ろうともしない。ことは自分の手の届かないところで思いのままに動いていると諦観している。それでも不思議なことに巻き込まれていく。ハードボイルドを経験させられる。それで何とか自分の人生の責任に気づいていく。

この意味では『ねじまき鳥クロニクル』は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の続きである。出ていってしまった妻をそのままにしていた主人公が、今度は責任を持ってその妻を取り戻す闘いである。そのあいだに『国境の南、太陽の西』で妻にどうしてなのだろうと真剣に問いかけていく主人公がいる。そして『ねじまき鳥クロニクル』で夫婦が真剣に問題に対面していく。この辺は著者である村上春樹自身の変化なのであろう。

あるいはそのように読んでいる私自身のことであるとも言える。夫婦のことが分かってきた面と、どうしても分かり得ない部分を抱えながらなお格闘している自分自身のことである。その意味でこの『ねじまき鳥クロニクル』は、夫婦がどのような問題を抱え、どのように妻を買い戻していくのか、大変興味を注がれる。さらに何度か読んでいるうちに、妻を買い戻すテーマにどうして「ねじまき鳥」が必要であり、「クロニクル」であることが必要なのか考えなければならなかった。

またそのクロニクルの一部として、ノモンハンの事件が出て、満州での虐殺が出てくる。妻を買い戻すために、どうしてノモンハンが必要で、満州国が必要なのかと考えさせられる。妻を買い戻すことと戦争のことの結びつきは新しい視点を与えてくれた。同時に大変なことだと思わされている。とても重い課題を負わされることになる。

ともかく夫婦のテーマなので拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』でこの本のことを言及することになった。すでに隠しようもない体験をしていることになる。また次の本『夫婦で奏でる霊の歌雅歌を巡って』でも『ねじまき鳥クロニクル』を取り上げている。ストレートに夫婦のことである。取りも直さず自分自身のことである。妻を買い戻すための闘いをどのようにしなければならないのかと問いかけられている自分自身のテーマである。そのために払われなければならない犠牲であり、闘わなければならない闘いであり、流されなければならない血である。

 

「台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。」「スパゲティーはゆであがる寸前だった」という書き出してこの物語は始まる。取るまいか、取らざるべきか、そんな迷いはスパゲティーをゆでたことがあると経験する。そんなためらいを感じさせながら物語の迷路に引き込まれていく。誘惑するような「謎の女」からの電話であった。その女が妻のクミコであることに気づくための苦闘が始まる。

妻が消えてしまうのと前後して、猫がいなくなってしまう。猫の名前はワタヤ・ノボル、クミコの兄の名前である。猫が戻ってくるのは、妻が戻ってくる兆候になる。サワラという新しい名前を付ける。それはクミコの兄の経済学者綿谷ノボルの死を与表する。どのように結びつくのか、それは迷路にもにている。

猫を探しに近所の路地に入る。そこで笠原メイという女の子に会う。その家の向かいの空き家に井戸があることを教えられる。乾いた井戸である。メイの家には井戸水があふれるように出てきていながら、その井戸は涸れたままである。呪われた家の涸れた井戸である。

主人公には名前がある。岡田享である。しかし「ねじまき鳥」と名乗る。猫探しのために不思議な名前の女に会う。加納マルタである。占い師のような、霊能者のような、ただ純粋な水を求めている女である。クミコの兄の紹介による。加納マルタには加納クレタという妹がいることを知らされる。

クミコが家を出ていってしまった日に、間宮中尉という人が訪ねてくる。クミコの両親の知り合いで、占い師であり、霊能者のような人であった木田さんという人とノモンハンで一緒であってという。木田さんの形見を届けてきたという。形見の中身は空であった。間宮中尉を岡田享に引き合わせるための木田さんの配慮であった。岡田享は木田さんの一言で何とか両親が承諾してくれてクミコと結婚ができた経緯がある。いろいろなことが結びついてくる。

 

この間宮中尉が木田さんと一緒に経験したノモンハンでのことが詳細に記されている。ノモンハンの戦いの前に参謀本部の山本という人と一緒に外蒙古の偵察に出る。目的を果たすが帰還前に外蒙軍に捕まる。ロシア人将校の「皮剥ボリス」から山本は皮を剥がされる拷問にあう。肩らか始まって両腕の皮、顔から爪先まで皮を剥がれる。なぜこんな描写が必要なのだろうかと思わせるほどの壮絶な情景である。

山本は最後まで口を割らなかった。それでロシア将校は何も知らなかったのだろうと思い、間宮中尉を砂漠のなかの井戸に放り込んで去っていく。真っ暗な井戸の底であった。涸れた井戸の底であった。一日に一度だけ太陽が天空にさしかかって差し込んでく。目も開けられないほどのまばゆい光りのなかにいる経験をする。一方、木田さんは蒙古兵の来るのを察して書類を取って身を隠していた。井戸をようやく見つけて間宮中尉を助け出す。書類は砂のなかに埋めて戻ってくる。ふたりだけの秘密であった。

この井戸の話を聞いて岡田享は笠原メイから教わった空き家の庭にある乾いた井戸に下りていくことになる。その間、夢のなかで加納クレタと交わることになる。一度はその女が「謎の女」に変わってしまう。また加納マルタと一緒にクミコの兄の綿谷ノボルに会う。そこでクミコが男を作って出ていったこと、離婚をしたがっているることを知らされる。しかし岡田享は納得をしない。それ以上に「下品な島の猿の話」をして綿谷ノボルを挑発する。

 

彼は枯れた真っ暗な井戸の底にいる。そこでクミコと出会い、結婚をした経緯を思い返す。当然クミコの両親と兄のことが出てくる。クミコにはひとりの姉がいた。その姉が自分で命を絶つことが起こった。そこに兄の異常性が関わっていることを感じ取る。ともかくクミコはそんな家族から抜け出すようにして岡田享と結婚をする。

結婚3年目に妊娠をする。彼が札幌に仕事で出かけているときにクミコはひとりで堕胎をしてしまう。クミコにはその理由が分かっていた。家系に隠れている呪いのようなものであった。彼女はまだ言えないという。彼はいたたまれない気持ちでひとりで夜空に出ていく。バーでひとりのギター弾きを見る。のちにこのギター弾きを東京で見ることになる。岡田享は彼と格闘し、彼がもっていたバットを持って帰ることになる。バットが闘いの武器になる。

井戸の底で夢を見る。ホテルの一室に閉じこめられている「謎の女」に会う。男が追ってくるからと言ってふたりで逃げる。その時壁抜けをする。小説の世界である。実際には起こりえないことを小説を書くことで体験をしているのである。そして右の頬の上に激しい熱を感じる。目を覚ましたときには壁のこちら側に戻っていることに気づく。

家に戻ってひげを剃ったときに右の頬にあざが付いていることに気づく。そのあざは井戸の底で夢を見たときに出会った「謎の女」と壁抜けをしたときに感じた熱によるものであることは確かであった。あざはその関わりを思い起こし、さらに何かの関わりがあることを示していた。

同時にクミコからの手紙が届いていた。堕胎のことに触れている。その時に話すべきことを話していたらこのようなことは起こらなかったかも知れないという。ただ話し出したらばいろいろなことがもっと決定的に駄目になってしまうのではないかと思って、自分のなかに飲み込んで消えることを願ったという。離婚と手続きをすることになるという。岡田享は妻について何も知らないのではないかと驚く。

 

彼が出てきた井戸に加納クレタも笠原メイも入ることになる。加納クレタはまさに壁抜けをして岡田享のところに来る。彼の隣で寝ている。そして彼女は自分の身に起こったことを話す。それは娼婦として綿谷ノボルのお客になったことである。しかしそれは異常なことであった。その異常性の描写は綿谷ノボルが妹であり、クミコの姉にしたことを想像させる。そして問題は、いまクミコがその同じ罠にとらえられていることである。

加納クレタは岡田享に話すことで解き放たれる。それでクレタ島に一緒に行こうと誘う。彼もその気になる。しかし同時に綿谷ノボルが政界に出ることを知る。伯父の新潟の選挙区から彼の跡を継いで出るという。問題が隠せないほど迫ってくる。綿谷ノボルは岡田享の手に負えないほど強力になっている。

笠原メイが井戸に下りていったときの話をする。自分のなかで溜まっていたものが井戸の底で膨らんでいって破裂するような感じになる。太陽の下では自分の中に収まっていたものが、井戸のなかでは栄養を吸い込むように膨らんでいく感じがして恐ろしかったという。そして岡田享の顔をあざをそっとなめる。その行為がのちに別な展開をもたらす。しかしここで笠原メイにひとつのいやしが届いてくる。

 

岡田享には彼らが住んでいる家を貸している叔父がいる。銀座に4.5軒の店を持っている。新しい店を出すときにその場所に立って何日もそこを通る人を眺めることだという。そうしたらそこがどのような場所かが分かるという。物事はどうでもいいことから始めなければならないという。あることにじっくり時間を掛けることは、一番の復讐になるという。

それで彼は新宿駅の西口の高層ビルの前の小さな広場のベンチに座って、何日も人を眺めることになる。ひとりの身なりのよい女性が話しかけてきた。「お金がほしいの」と聞く。その女性は彼のあざをじっと見ていた。何かを彼女に思い出させたようである。

そしてあのクミコが堕胎をしたときに行った札幌のバーで見たギターをもった男が目の前を通り過ぎていった。クミコがその時に言ったことを思い出さないわけに行かない。どこにいても逃げられないこと知る。クレタ島に行っているわけには行かない。彼は後をつける。安アパートでこの男の待ち伏せにあい、格闘となる。彼がもっていたバットを奪い返して、彼を叩きつけて、帰ってくる。バットを押入に隠しておく。

 

ことは動き出している。岡田享は逃げることはできない。加納クレタはクレタ島に行き、笠原メイは遠くの学校に行く。微かにねじまき鳥がねじを巻いている音が聞こえてくる。

区営プールで泳いでいると時に、巨大な井戸のなかで浮かんでいる幻影を見る。目を閉じているとホテルの一室にとらえられている「謎の女」に出会う。そしてその女がクミコであると気づく。暗闇の部屋から助け出されることを求めて叫んでいるのだと分かる。救い出すことの資格「買い戻しの権利」を持っているのは自分だけであると気づく。

 

闘いが始まる。そのしるしにように顔のあざが熱を持ってくる。あの井戸を何として手に入れなければならないと思う。また新宿駅の西口の高層ビルの前の小さなベンチに座って、通りすぎる人を眺めることになる。また同じ女性が現れ、「どうやらお金が必要になったようです」という。

ここからこの女性、ナツメグと、その子どもで言葉を失ってしまったシナモンの家族に起こったことと、この母子がいましている「仮縫い」の仕事に岡田享は巻き込まれていく。それは同時に政界に出ている綿谷ノボルの野心に大いに抵触することになる。ナツメグの家系に呪いのように伝わっている悪の力と、綿谷ノボルに隠されている悪の力との闘いになる。そのあいだで岡田享は格闘をする。

ナツメグは幼いとき母と満州から引き上げてきた。獣医である父親をおいてきた。洋裁とデザインの才能があり、その面で有名になる。彼女の夫はあるホテルの一室で醜い死を遂げる。その幻影を幼いシナモンが真夜中に自分の部屋から見ることになる。それで言葉を失う。ナツメグは自分のうちに隠れていた霊力を用いて、政界、財界の婦人たちのいやしを「仮縫い」ということで行うことになる。シナモンはその助手として働いている。

岡田享はその「仮縫い」をナツメグに代わってすることになる。それは彼のほほにあるあざによってである。婦人たちが、笠原メイがしたように、なめるのである。その同じようなあざをナツメグの父である獣医が持っていたことを聞く。あざで結びついていることを知る。ナツメグからさらに、獣医が担当していた満州の動物園で、戦争末期で動物たちを殺す話を聞く。その話をシナモンにもしてきたという。

「仮縫い」の場が、笠原メイの家の前の空き家であったところに移る。ナツメグとシナモンがそこを買い取って、高い塀に囲まれたコンクリートの建物としていたのである。岡田享は路地を抜けて通うことになる。猫が家に帰ってくる。それはクミコが家に帰ってくることのさきがけとなる。

井戸の底はクミコが閉じこめられているホテルの一室に通じる意識の通路になる。その壁が少しずつ溶けていくことが分かる。闇の奥にクミコが助けを求めていることが分かる。その井戸の底で岡田享はバットをしっかりと握って時を待っている。

 

呪われた空き家でのことが週刊誌の種になる。政治家になった綿谷ノボルの神経に触れる。彼の伯父も満州に絡んでいる。彼は岡田享をその場から引き離すために取引を始める。しかし岡田享は拒絶する。核心に近づいていく。

遠くに行った笠原メイから何度も手紙が届く。岡田享のあざをなめることで癒された彼女は人生を真剣に生きようとする。一生懸命に仕事をする。ただそんな文面の手紙が届く。暗闇の闘いをしているなかでの清涼飲料のように届いてくる。後でそんな手紙は届いていなかったとメイにいう。

綿谷ノボルの使い走りによって、シナモンが使っているコンピューターでクミコとやり取りをすることになる。猫が帰ってきたことを告げる。自分はもう駄目になってしまったので捜さないでほしいとクミコは訴える。その駄目になったのは、「もっと長い時間のことです」という。結婚前からのことという。彼はクミコが綿谷ノボルに精神的にとらえられていることを確認する。忘れてほしいと言っているけれども、助けを求めているその声を聞くことができるとクミコに告げる。

綿谷ノボルは政界の寵児として躍り出ている。ナツメグは岡田享が彼の義弟であることを知る。それで「仮縫い」は終わることになる。政界の見えない暗部に触れてくる。岡田享は綿谷ノボルの走り使いを通してコンピューターを通して綿谷ノボルとやり取りをする。彼の暗部に岡田享はナイフを突きつける。死んだクミコの姉にしたことが何であるか分かっていると告げる。綿谷ノボルの仮面の下の秘密に近づいている。

同じコンピューターから「ねじまき鳥クロニクル」が画面に出てくる。その8番目を押す。それは獣医の物語であった。8人の兵士に引き連れられて動物園で殺された4人の中国人のことであった。野球のユニホームを着ていた。その3人を銃剣で殺し、残りのひとりをバットで叩き殺す。北海道出身の若い兵士がバットで叩き殺す。まさにバットである。若い兵士はねじまき鳥のなく声を聞く。

岡田享は、この「ねじまき鳥クロニクル」がシナモンによって語られた物語であることを確信する。クロニクルの8番目なのでその前後の物語りもあるわけである。なぜシナモンはこの物語を作る必要があったのであろうか。なぜそれを岡田享に見せる必要があったのだろうか。「ねじまき鳥」のことは、はナツメグも無意識にではあるがすでに語っていたことを思い出す。特定の人にしか聞こえない「ねじまき鳥」で結びついていることを知る。

 

「仮縫い」の仕事もなくなり、岡田享は行き詰まる。行き詰まったら街に出る。街で綿谷ノボルの使い走りに会う。彼がすでに綿谷ノボルから手を引いていることを知る。使い走りは綿谷家のややこしい問題をかぎ取っている。クミコが強引に引き戻されてしまったことを感じ取っている。それは岡田享の手に負えない闘いであることを告げる。

間宮中尉からの手紙が届く。終戦間際にソ連軍の戦車に引かれて左腕を失う。シベリヤでの抑留生活で、モンゴルで出会った皮剥ボリスに遭遇する。彼を銃で打ちそこなったが、帰還を許される。皮剥ボリスのことがまた出てきた。それが何を意味するのか、それを語ることがどのような意味をもたらすのか、間宮中尉も分からないという。

岡田享はあてどなく井戸に下りていく。バットがないことで慌てる。しかし、井戸の底で区営プールで泳いだときのことを思い出す。そして眠りに落ちる。そして壁を抜ける。あのホテルにいる。ロビーのテレビで衆院議員の綿谷ノボルが暴漢に襲われて重傷を負ったことが放映されていた。バットで頭を強打されたという。その男の顔にはあざがあると言っている。

岡田享は逃げ出す。不思議な顔のない男の手助けをいただく。誰なのか。「私は虚ろな人間です」という。女のいる部屋まで導かれる。女は「顔を照らさないで」という。彼は1年5ヶ月ぶりに会えたという。クミコだと告げる。「私に会うために?」とクミコの声が返ってくる。会うためではなくて、「取り戻すために来たんだ」と告げる。「愛しているから」という。

岡田享はクミコに謎を解き明かす。クミコが組み込まれた謎である。綿谷ノボルが引き込んだ闇である。それでクミコのお姉さんが死を選ぶことになった闇である。それでクミコ自身が妊娠で子に伝わることを恐れていた闇である。自分と結婚することで一時的には逃れることができたが、妊娠をすることで呼び覚まされた闇である。綿谷ノボル自身がそれがなければ生きられない闇である。それでクミコを自分のところに引き込んだ闇である。

岡田享は「君をここから連れて帰る」という。女は自分がクミコであるという自信はあるのかと聞く。「心は決まっている」という。彼女はプレゼントがあるという。あのバッタであった。綿谷ノボルの頭を殴ったバッタであった。ドアをノックする音がする。逃げてと彼女は言う。彼は「これは戦争なのだ」という。

 

男はナイフを持っていた。岡田享はバットを持っていた。男のナイフで何度か傷つけられる。しかし彼の完璧なスイングが男を叩きのめす。彼は疲れ果ててソファーに座り込む。クミコを連れて返らないといけないと思っても、意識はやがて薄れていく。

気づいたときには、井戸の底にいる。しかしいつもとは違っていた。水が湧き出ていた。それだけでない。水は増してきている。そして、水に飲み込まれていく。

「仮縫い」の屋敷で目を覚ます。ナツメグは、シナモンが井戸から救い出して、連れてきたという。それだけでなく、綿谷ノボルが長崎で脳溢血で倒れて、意識を失ったままであることを知らされる。自分が殴り殺したこととどのように繋がっているのか考える。クミコはどうなったのか思い惑う。

体力が回復してきて、鏡を見て驚く。あざが消えている。そしてコンピューターからシナモンが呼んでいることが分かる。「ねじまき鳥クロニクル」の17番目が添えられている。それはクミコからのものであった。

コンピューターに接続するためのパスワードを誰からから送られてきたという。綿谷ノボルは生命維持装置に繋がれている。そのプラグを抜いて、自分が綿谷ノボルを殺さなければならないという。それをしなければ解放されないことを分かっている。そのための裁きを受ける覚悟だという。

クミコは保釈されることを拒否した。静かに拘置所で裁きを待っている。すべてが終わるまで岡田享にも会おうとしない。彼もすべてが終わるまで家で待つことにする。そうするように彼は戦ってきたのだという。もっとひどいことにもなりえたのだ。

 

この物語はいろいろな関わりを持って展開しているので、鳥瞰図的に流れを追ってみた。その繋がりは人間関係であり、歴史的であり、意識下のことであり、メタフォリカルである。それは現実に誰もが抱えてる関わりであり、繋がりである。すなわち、誰もが人との関わりで生きており、時間的な関わりでどこかに繋がっており、無意識の世界の繋がりを持っており、あらゆることにメタフォリカルに結びついている。あのバットのように。

そのような関わりは、夫婦がお互いをより理解しようと思い、ひとつになろうと願えば、プラスに働くときがあり、マイナスに働くときがある。マイナスに働く面で決定的にふたりを引き裂くことがあり、一時的に負わなければならない課題として出てくることがある。岡田享とクミコはそのマイナスの面を極度に負わされることになり、崖淵に立たされる。クミコが妊娠によって気づいた自分の家系の呪いのようなものである。

同時にプラスの関わりで、彼らも助けをいただくことになる。あの木田さんのような人によってである。また彼の叔父もそうである。笠原メイの役割はマイナスではないが、積極的な意味でプラスでもない。それでも回復のメタファーになっている。

前作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ではその関わりは意識下とメタフォリカルなことが中心であった。今回の物語は、それにさらに歴史的な関わりと人間関係が深くが入ってきている。関わっている人間にそれぞれの歴史的な関わりがあり、その背後にさらに意識下の関わりとメタフォリカルな関わりが潜んでいる。シナモンがそうである。

そなんなこんなでこの物語は、その繋がりを見つけだすだけでも楽しみである。あのホテルで岡田享を助けた顔のない男、虚ろな人間は誰なのか。木田さんが自分の形見をといって結びつけ、皮剥ボリスと井戸の話をした間宮中尉であろうか。別に特定する必要もないことである。また笠原メイの手紙は何を意味しているのであろうか。岡田享の回復のプロセスを先駆けているようにも思える。

 

岡田享はクミコの両親の紹介で、それがふたりの結婚の条件であったが、木田さんという人に会うことでノモンハンの戦争のことを知る。その木田さんを通して間宮中尉の話を聞くことになる。その間宮中尉が訪ねてきた日にクミコが家を出ていく。すでにクミコの失踪とノモンハンが繋がってきている。ふたりの意識の深くにあること、厳密にはクミコのといったほうがいいのかも知れないが、その意識下のことが遠くノモンハンまで結びついていく。

意識の世界がどんどん延ばされてその先を辿っていく。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ではどんどん下に下降がっていったのであるが、ここでは時間の世界を遡りながら、意識の世界を広げていく。時間を限りなく広げていくと、時間という枠が消えて、意識下の世界が出てくる。それが井戸である。

終戦間際の混乱を通ったのがシナモンの母のナツメグである。その話をシナモンが受け継いでいる。シナモン自身の世界になっている。シナモンは言葉を失ってしまったが、書くことはできた。母から聞いた話を結びつけながら回復を願う。その話が「クロニクル」である。岡田享は自分の顔のあざと自分に手渡されたバットがこのクロニクルにあることを知る。そして、クミコが家に帰ってくることでシナモンのクロニクルが完成する。

クロニクルは「年代記」である。しかし、それは単なる過去の出来事の羅列ではなくて、その連続して動いていることのなかに意味を見いだしてまとめている記者の視点の世界である。この物語は岡田享の関わっている世界のクロニクルであるが、それがシナモンによってまとめられることで、シナモン自身の回復になっている。またシナモンによって提示されることで岡田享は自分のおかれている世界を知ることになる。

あのバットのことはシナモンが提示したクロニクルの8番目で知ることになる。またクミコのメッセージは16巻でまとめられているクロニクルの続きの17番目に届けられる。

 

誰もが自分のクロニクルを持っている。持っているというより、そのクロニクルに含まれている流れで生きている。ひとつのことがある力をもって押し寄せ、その流れに押し流されるように、あるいはそれに対抗しながら生きている。そは悪の力でもあり、善の力でもある。

私の名前は「上沼」である。関西の有名なタレントで「上沼美恵子」という人がいる。ただ同じ「上沼」でも、私の読み方は「うえぬま」であり、彼女のものは「かみぬま」である。私も結構学校で先生から「かみぬま」と呼ばれた。面倒なのでそのまま返事をしていた。父の出身は長野の飯田市外の下伊那郡である。数年前に従兄と話をしていたときに、ひとつの部落の半分が「かみぬま」といい、後の半分が「うえぬま」と名乗っていたという。「上沼恵美子」さんの家系はその半分の出身であるという。その部落でいままでどのようなことが起こってきたのかを知るよしもないが、父はともかくその半分の出身であり、私もそれを受け継いでいる。

妻の名前はLyonであった。カタカナにするとライオンになる。しかしもとの読み方はドイツのと国境のフランスのリヨンである。それでもドイツ系の家系である。母方もドイツ系である。妻の世代でもその先を3代か、4代遡ればヨーロッパからの移民である。どのような経緯を通してアメリカに渡ってきたのかは知らない。3代ぐらい前まではよく話しに出てくる。妻がそのようななかで確実に受け継いできているものがある。

考えてみるとそれぞれが大変なクロニクルを負って生きていることになる。そこにプラスの流れがあり、マイナスの流れがある。そんなふたりが不思議に出会い、導かれている。それはただミステリーとしてしか言いようのないことである。

 

このクロニクルに「ねじまき鳥」とつけられている。過去のある流れは大きな力となって押し寄せてくる。加速度が付いているので止めることができない。その力がマイナスの時には思いがけない潜在力となって破壊力を発揮する。その人の人格を駄目にし、人生を狂わせ、結婚を破綻させてしまう。それを阻止し、流れを変えていかなければならない。新しいねじを巻かなければならない。

過去の暗い歴史がある。それが記憶に浸食していく。意識下の世界を支配していく。知らないうちに同じことを繰り返してしまう。止めることができない。流れを変えなければならない。誰かがねじを巻かなければならない。ねじまき鳥はメタファーである。ある特定の人しか聞くことができない。岡田享が聞き、ナツメグが聞いている。岡田享は自分を「ねじまき鳥」と呼ぶ。シナモンは「ねじまき鳥クロニクル」を岡田享に送っている。

 

過去の暗い歴史は、日本が関わってきた戦争である。そこで起こったことが語ることができなくても記憶として私たちのなかに浸食している。語られないために記憶はますます暗い闇包まれ、変色していく。それが私たちの意識下の世界にまで届いてくる。心の深いところで闇としてとどまっている。

どの国も、どの民族も戦争を避けないでしてきている。それでも私たちの場合にはその戦争のことがことのほか重い記憶として残っている。いまだにその責任を明確にしていない。できないでいる。語ることもできない。それでいて誰もが重い空気を感じている。そんなどんよりとした流れが私たちの心の底にある。

そんな流れが人に継がれてクミコにまで来ている。岡田享と結婚をすることでその流れから外れたと思っていたが、妊娠を通して引き戻されることになる。岡田享ももはや避けることができない。そこは闘いの場であり、血が流されるところである。

この物語を読み出して、どうしてノモンハンのことが出てくる必要があるのかと考えさせられる。しかも皮剥の場面がどうして必要なのかと思わされる。さらに満州国の悲惨な結末、中国人へのバットでの虐殺の場面がどうして必要なのかと何度も考えさせられる。しかもその描写は自分がその場にいて見ているかのような錯覚すら呼び起こすものである。忘れられない記憶を残していく。

 

村上春樹の作品には、戦争のここと大学紛争のことが必ずと言っていいほど出てくる。それは過去の暗い歴史が、悪の力として私たちのなかに潜在的な流れとして染み込んでいると見ているからである。その力が呪いのように私たちの心をとらえていることを知っているからである。意識下の世界で捕らえられている心を感じ取っているからである。彼はそれを時代の病、文化の病、国の病と呼んでいる。

同時に、村上春樹はそれを民族の病と見ている。過去に起こったことが遺伝のように伝わって引き継がれていき、どこかで膿のように次の災いを引き起こす。クミコの家族に引き継がれたものが何であったのかは、大きな問題ではない。ただ何か異様なものを引き継いでるとという事実である。伯父が満州国に高官として関わっていた。戦後衆議院議員になり、その後を綿谷ノボルが引き継ぐ。そのあたりから悪の力が表面に出てくる。

その満州国の話と、その前のノモンハンのことを村上春樹は避けることができないこと見ている。それは民族とてしの日本人に受け継がれていると見ている。同じ意味で大学紛争のことも見ている。そんな村上春樹の視点に気づいて私も戦争のことと大学紛争のことを考えている。過去のことであることは変わりがない。それでいてその何かを引く継いでいる。病のように引き継いでいる。

そんなことで会話やセミナーで、戦争と大学紛争のことを避けることのできないこととして出している。それは出せない、語れないということで、過去のことが潜在的な悪の力となって私たちのなかに流れていると思うからである。信仰者でもこれらのことを語れないために、大きな闇として心を覆ってしまっているからである。

大学紛争と戦争のことを会話やセミナーで出すときに、村上春樹がどうしてそれらのことを小説に出しているのかを説明することにしている。皮剥の場面が克明に描写されていること、バットで叩き殺す場面に吸い込まれしまいそうになることを説明する。夫婦の物語りにそのような描写が出てくる必要性を問いかける。

問いかけに答えてくれて、また何かに気づいてくれて、自分たちのことを語り出してくれる。大学闘争のまっただ中にいたこと、敵前逃亡をしたこと、互いに語れないでただ心に閉まっていたこと、私の同年輩の人であれば誰でもかどこかで経験してきたことを語ってくれた。戦争のさなかで少女として辱めを受けたこと、戦争を契機としていまアメリカに住んでいること、思いがけない苦渋を味わったこと、話してくれる。

話すことで心が解き放たれることが分かる。心の奥に閉まっていたものが解消されるのが分かる。そんな人生をいとおしく想う心が浮かんでくることが分かる。そんな経験をしている。村上春樹体験の一面である。

 

岡田享は、強力な力を身に着けてきた綿谷ノボルがクミコを飲み込んでいることを知る。引き継がれた悪の力にクミコが捕らえられていることを知る。間宮中尉が語ってくれたノモンハンの異常な出来事は、岡田享を同じような状況に導く。そのための木田さんの引き合わせである。

この悪の力と戦うために血が流されなければならない。戦わなければならない。それはただ武器を持って戦うことではない。井戸の底に下りていくことである。岡田享が直接にからだを持って格闘したのは、札幌で見たギター弾きの男との時だけであった。その格闘で不思議にバットを引き継ぐことになり、そのバットで壁の向こうで綿谷ノボルの頭を叩きのめすことになる。しかもそれは井戸の底の壁の向こうでのことである。

井戸の底に降りていくことは、闘いの相手である綿谷ノボルの心の底に到達するためである。一見整っているように見える表層の下のクラゲのようなぬるぬるした闇の世界をさらけ出すためである。彼の内側にある悪の力の核心に届くためである。そして、クミコを束縛している綿谷ノボルを壊滅するためである。

井戸の底に降りていくことはエネルギーのいることである。自分の過去を思い起こし、自分の心を見つめることは厳しいことである。岡田享が井戸の底でクミコが出ていくことになる原因に突き当たることである。原因を知っただけ、その解明のために責任を負うことである。闘いを覚悟することである。どのようなことが起こっても受け止める覚悟である。それはすでに避けられないからである。まさにねじを巻くことである。

 

ねじを巻くのは誰か。私たち信仰者にとってはそれは神からいただく恵みによっている。自分の内から自然に湧いてくるものではない、私たちのなかにはむしろ私たちを滅びに至らせる悪の力が強い。放っておいたらば流されてしまう。それを自分で食い止めて流れを変えるのは難しい。そのような悪の力が自分のなかで働いていることを良く知っている。その流れを阻止し、変えなければならないことを良く知っている。

神の恵みはそのような流れを変える力がある。人生の流れを変える力である。それぞれがどうにもならない負い目を負いながら歩んでいても、その負い目にまかされないで新しい方向に歩んでいく力である。またその新しい流れが心の深くに浸透することで方向転換していく力である。

そのために自分の心の底に降りていくことである。その底でじっと自分の心を見つめることである。心の深くで自分の闇を見ることである。闇で光りを体験することである。闇を支配している力を暴くことである。井戸の底で壁を抜けて、自分の世界を出ていくことである。壁の向こうで苦しんでいる人を助け出すことである。

 

出ていった妻を買い戻すストーリーは、井戸の底に降りていって、クロニクルを完成することで終わる。

 

上沼昌雄記

「村上春樹・体験—その3」2006年7月4日

『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』

 

先週サクラメントで荒井先生とお会いした。ミニストリーのこと、JCFNのことで話し合ったのであるが、最後に村上春樹のことになった。今の私はどうしても村上春樹のことになってしまう。特にレスポンスを期待していなかった。ただ村上春樹のことで書いていることを紹介するつもりで話を出した。荒井先生は教会の人に紹介されていま読んでいると言うことだった。それでしばらく村上春樹のことで話し合うことになった。

荒井先生の感想は「この人はおかしいのではないか」というものであった。現実をごまかしているというか、すりかえながら生きているのではないかと言う。どうも村上春樹のストーリーの組み立てには馴染めない感じであった。しかしどこかで三島由紀夫に似ているのではないかと言われた。すごい洞察だと思った。状況や人や自然を描くときにとても細かくて正確に描写していることが似ているということであった。しかもその精密さが三島由紀夫を死に追いやった異常さに結びついていることを言いたかったようである。

荒井先生もマラソンをされるので、村上春樹もボストン・マラソンなので走っていますと言ったら、マラソンをする人はおかしな人ですよと言い返してきた。それで村上春樹の旅行記やエッセイを読むと、この作家の別の面が出てきてホッとすることをお伝えした。確かに彼の小説は嫌いだが、エッセイや旅行記は好きだという人に遇ったこともある。村上春樹自身どこかで、小説を書いているときはおかしくなるのですが、それ以外は全く普通のどうにもならない人間ですというようなことを言っている。

今回取り上げる村上春樹体験はまさに彼のエッセイであり旅行記である。荒井先生と話をする前から取り上げたいと思っていたので、荒井先生のコメントは成り行きとして興味深かった。

 

悲しいことで『国境の南、太陽の西』を読むことになって村上春樹の世界に興味を持った。多分その後、『ノルウェイの森』『ダンス、ダンス、ダンス』そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の順で読んだような気がする。何か霧の向こう、壁の裏側、地下の闇の世界を描いていることが分かった。自分のなかで触れないでいたものに触れたような気がした。心の何かに引っかかってくるものを感じた。さらに惹きつけられることになった

その後初期の3部作といわれる『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』を読んだ。村上春樹の出てきたところが分かったような気がした。正確な順序は覚えていないが、この3部作と前後しながら『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』を読んだ。前者はエッセイといったらよいのか紀行文といったらよいのかアメリカでの体験であり、後者はヨーロッパの旅行記である。

このふたつの本に接して村上春樹の生きる姿勢と、文章を書く姿勢に興味を持った。当たり前の世界があり、当たり前のように、しかししっかりと生きていて、それでいてどうにもならない世界があって、それで振り回され、苦しめられ、格闘をしていることが人生なのだと、ステートメントでもなく、メッセージでもなく、淡々と書き記すことに感心した。当たり前の作家の顔がこのふたつの本には出てきて安心するのと、当たり前の顔の裏側で、誰もそうであるように村上春樹も苦しみ、格闘していることがよく分かった。

『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』を読んで、村上春樹の文章にも大変な親しみを覚えた。それまで読んできた小説では何かが心の琴に触れることを覚えていたが、とうてい自分にはそのような文章は書けないことが分かっていた。しかし『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』に接して、「待てよ、自分でも書けそうな気がする」というそれこそ不遜な思いが出てきた。ミニストリーで起こったことや出会った人のことをいままでニュースレターなので書いてきたが、何かその延長線上にこの2つの本があるように思った。

結果としてこのような思いがあったので拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』と『苦しみ通して神に近づく』を書くことになった。ともかく書いても良いのだと自分に言い聞かせることができた。自分の拙い経験であっても世に出しても良いのだと思った。とんでもない村上春樹体験である。

 

『やがて哀しき外国語』は、村上春樹が1991年から95年までアメリカのニュージャージー州のプリンストンとマサチューセッツ州のケンブリッジに住んでいたのであるが、その前半のプリストン時代のことが書いてある。『遠い太鼓』は時間は遡って、1986年から89年までヨーロッパに住んでいたときの記録である。私が読んだのは『やがて哀しき外国語』が先であった。それで興味を持って『遠い太鼓』を続いて読んだのも覚えている。それで体験した順序に従って『やがて哀しき外国語』を先に出している。

ともかく村上春樹は37歳から46歳まで、その間1年ちょっと日本での生活を挟んで、海外で生活し、活動していたことになる。ヨーロッパ滞在の間に『ノルウェイの森』と『ダンス、ダンス、ダンス』を刊行し、アメリカ滞在の間に『国境の南、太陽の西』と『ねじまき鳥クロニクル』を出している。『遠い太鼓』はギリシャから始まった旅と生活の体験談であるが、折々に執筆のことが書いてあって興味深い。ともかく直接的な体験を鮮明に書いている。『やがて哀しき外国語』は、アメリカ生活で感じ、考えたことをテーマを選んで書いている。

村上春樹がアメリカで生活し、執筆を始めたときは、私が家族でカリフォルニアに移り住んで2年経ち、生活を立てあげるのに苦労していたときであり、いまのミニストリーを始めたときでもある。実際に『やがて哀しき外国語』を読んだのはそれから8年経って1999年ぐらいであったが、私なりのアメリカ体験があり、思うところがあったので、同意しながら、時には代弁してくれているような気になって、時にはなるほどと感心しながら読んだ。本を紹介してくれた人がいたわけでなく、小説のようにストーリーとしての舞台装置があるわけでなく、彼が経験し、思ったことと私自身の経験し、思わされたことがストレートに結びついた。水平的な村上春樹体験であった。

『やがて哀しき外国語』の「あとがき」で村上春樹が言っていることになるほどと思わされた。「長く日本を離れていていちばん強く実感することは、自分がいなくても世の中は何の支障もなく円滑に進行していくのだなと言うことである。」彼はすでに『ノルウェイの森』で超ベストセラー作家になっていたわけであるから、彼がもし飛行機事故でなくなったら大変な記事になるのは明らかであるが、それでも世の中が混乱することはなく、困ることもないと言う。そこまで言われたら私が日本からいなくなっても誰も、何も困るわけでないこと明らかだと納得できる。

「外国に長く出るというのは社会的消滅の先取り=疑似体験であると言っていいような気がする。」社会的な存在の死である。日本で生活し、その役割に追われている状況では、「自分の無用性」に付いて考える暇はないのは確かであると言う。社会的な存在の死を体験することで、本来の自分のあり方の再確認をすることにもなる。星野富弘さんのように社会的、身体機能的な死を経験することで、星野さんの本来のものが生きてくるのであろうと思わされる。

ここまで言えるのはすでに村上春樹がその前のヨーロッパから始まって海外生活で自分をしっかりと見つめているからである。海外にいても日本をそのまま引き連れている人もいる。村上春樹はプリストン大学でそのような日本での身分や、場合によっては自分の偏差値まで引き合いに出している人がいると言う。教職者の身分でアメリカに2,3年留学をされても、日本人としての尺度だけでアメリカを見てしまう人がいる。教職者の場合にはその尺度を捨てて、聖書の尺度を身に着ける大変よい機会であるが、日本人としての尺度を固持することが聖書的と思っている。

村上春樹のこの洞察は私に深い納得を与えてくれた。社会的消滅はそんなに気持ちのよいものではない。そのような身分があり、地位があればそれで自分の役割を演じることができる。私がアメリカに家族で移ることになったのは44歳の時であった。いちばん働き盛りなのにとある人から言われたのを覚えている。実際にアメリカに移ってから数年は皿洗いやペンキ塗りをしながら何とかミニストリーを軌道に乗せるのに腐心していた。その上に信じられない導きで自分の家を建てることになり、ともかく数年は肉体労働に追われていた。それでもその間不思議に日本のことも、自分の立場のことも全く気にならなかった。

残っていたのは自分と神のことである。どうすることが神に喜ばれるのかという信仰命題的なことよりも、どうすることを自分が一番求めているのかと神に問われたときである。既成の体制のなかで求められることでもなくて、人の期待に応えるためでもなくて、ただ自分の心が一番必要としていることで、同時に神が許してくださることを祈り求めた。ミニストリーはそのようなかで与えられた。村上春樹のこの洞察に接したのはミニストリーが始まって8年ほど経っていたときなので、ただうなずくばかりであった。

 

村上春樹自身の社会的消滅の経験は、彼の小説の普遍性を生み出している。社会的な文化的なものを越えて彼の小説が世界的に読まれている。それは、ともかく人としての存在の誰もが抱え、彼もが苦しんでいることに触れることができているからである。小説の舞台は紛れもなく日本であり、日本人であるが、そこで展開されることは人の心であり、人が日常生活でふっと感じさせられる不安であり恐怖である。どこかから襲ってくる闇であり、深い泥沼に引き込む暗闇である。

アメリカでじっくり生活をして分かることは、アメリカ人も日本人と同じように、同じようなことで心のなかで苦しんでいることである。表面的な違いは確かにあるが、アメリカ人も劣等感や、アイデンティティーや、依存症で苦しんでいることが手に取るように分かる。言葉や生活様式の違いは全く表面的なものになる。問題の出方が少し異なったり、対応が異なったりしているだけである。そのように思っているので、教職者や宣教師が文化論を持ち出してくるとどのように対応したらよいのか困惑してしまうのである。

『やがて哀しき外国語』は一見村上春樹の文化論とも読める。最初にヨーロッパに脱出した経緯はあまり書かれていない。多分その前に出した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に関して心外な批評を、いわゆる分かったようなことを言っている批評家から言われて、怒りを覚えて日本を脱出したのではないかと勝手に想像している。アメリカにはプリストン大学に招かれて来た。それぞれ日本を出ていった理由は違うのであるが、『やがて哀しき外国語』では結構日本のことも書いてある。「アメリカで走ること、日本で走ること」というテーマはその意味でおもしろい。それでも文化論に終わっていない。アメリカと日本の違いを見る彼の視点が浮き彫りにされている。

その村上春樹の視点は、日本に属しているわけでもない、もちろんアメリカにあるわけでもない。彼自身が持っているものであり、彼固有のものである。それでいながら世界に通用するものである。その意味でアメリカには私よりはるかに短い滞在でありながら、アメリカが抱えている課題を見事に捉えている。世界を旅をして生活をしながら村上春樹自身の視点が定まってきたと言える。その視点が世界に通用している。小説の舞台は日本であっても、そこで展開される心の世界は普遍的な意味合いを含んでいる。

 

『遠い太鼓』の「はじめに」に『ノルウェイの森』と『ダンス、ダンス、ダンス』を書いたときのことが記してある。「このふたつの小説には宿命的に異国の影がしみついているように僕には感じられる。」日本にいてもこのふたつの小説は書いていたと思うが、違った色彩を帯びていたであろうと言う。「はっきり言えば、僕はこれほど垂直的に深く『入って』いかなかったであろう。良くも悪くも。」実際にはどこが「宿命的な異国の影」なのかを言うのは難しい。しかし「垂直的に深く入っていった」ことは分かる。

海外で生活していたら自分を見つめる以外にない。いつでも日本に帰ると思っていたら日本の枠をしっかり持ったままで我慢すればよい。そう簡単には帰れないと分かったら覚悟しなければならない。外的にも内的にも自分を見つめることである。人に頼ることはできない。誰もこうしろとかああしろとかは言わない。自分で決めなければならない。そのだけ自分の世界にそのまま入ることができる。ストレートに入ることができる。多くの場合にストレートに深く入る以外にないのである。

自分が何を求め、何を必要としているのかが見えてくる。逆に言えば、自分が何を失い、何を欠いてきたのかが見えてくる。定められたレールに乗って、決められたことをこなしていることでは見えなかった自分が見えてくる。自分の人生をしっかりと責任を持って考えていくことになる。誰も何も言わないし、誰にもないも言われない自分の人生をしっかりと責任を持って生きていく以外にない。

作家として村上春樹は書きたいことが分かっていた。そのように言っている。その書きたいことにストレートに入っていくことができた。それは彼の心の渇望であり、彼の人生が必要としていたものであった。日本にいても書いたであろうと言っている。しかしそれほど「垂直的に深く入った」いったのは、ただ自分を見つめながら、心から湧き出るものを書いたからである。誰のことも、誰の意見も気にしないで、書きたいことを直截に書いたのである。

それが結果としてどのような「宿命的な異国の影」を醸し出しているのかは的確には表現できない。村上春樹はそれが「しみついている」と言う。またそれしか言えないという。実際にはギリシャで書き始め、シシリーに移り、ローマで完成したと言う。言えるとすれば地中海的な穏やかさ、温かさではなくて、まさにノルウェイの薄暗い森の臭いが染み込んでると言える。どちらにしても日本では削がれてしまいそうな集中力と創造力をもって書いたことが分かる。そのように垂直に深く入ったところは村上春樹自身の心である。それが文章化されることで、その心に染み込んでいた趣が逆に異国にも響いていったのである。

 

村上春樹の作品を批評したりコメントをしたりすることが目的ではないが、ただ彼が数年日本を離れ異国の地で生活をし、小説を書いたのは、作家としての資質を飛躍的に高めることになったように思う。人間としての求めが明確になり、取り扱う課題に直截に入っていくことができたからである。結果として彼の作品はグローバルに読者を惹きつけている。

流れとしては『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を刊行した次の年からヨーロッパでの旅が始まり、『ノルウェイの森』を書き出している。ファンタジー小説とリアル小説とも言えるほど趣を異にしている。ただ『ノルウェイの森』ではリアルな設定のストーリーに垂直に深く入ることができた。日本でのうるさい声を一切後にして、心の深くにあるものを見つめながら、リアルな設定の上にその思いを直截に出している。そしてこのふたつの作品で出てきたファンタジーとリアリティーはその後の彼の小説に受け継がれている。

海外で生活をしているときには否応なしに自分を見つめることになる。時にはそんな時間が悠々と何時間も続くことがある。結果として自分が何を求めているのか問われてくる。自分がしたいこと、人生ですべきと思うことに集中してくる。そして少なくともアメリカではそれが法に外れていなければ思い存分することができる。そのために努力していることが分かれば周囲が認めてくれる。そのために皿洗いやペンキ塗りをしてることも理解してくれる。ミニストリーはそのようにして始まった。

日本にいたらできないことがある。雑音に振り回されたり、心が萎縮してしまったりする。周囲を気にしながら文章を書いたら趣が異なってしまう。同じことを同じようにすることが求められる。外れることは心情的に許されない。なんだかんだといって締め付けてくる。村上春樹はそんな状況を「先端的波乗り競争」「文化的焼き畑農業」「文化的消耗」と呼んでいる。

村上春樹は日本ではいわゆる文壇に入らない。いわゆる批評家の批評は読まない。メデアにでない。いわゆる文学賞の審査員にならない。サイン会もしない。結構はっきりと方針を出している。それなりに厳しいことだと思う。そんな決別を海外生活をすることで内外とも示したのだと思う。結構いろいろなことを言われたことをどこかで述べている。いまではそんな雑音も出ても届かないほどの高みと言うより、深みに村上春樹はいる。

 

自分がいなくても日本が変わるわけでなという「社会的消滅の先取り=疑似体験」と、「宿命的な異国の影」という村上春樹の体験はそのままどこかで自分のものに結びついてくることなので、このふたつの本はすんなりと直接的に私のなかに入ってきた。海外で生活しているがゆえに経験させられていることを文章化していることに親しみを覚える。小説とは違った体験である。海外で生活しているがゆえの共有体験を許してくれる。小説を通しての体験はかゆいところに手が届く感じであるが、このふたつの作品を通しての体験はお腹のあたりで感じることができる。身近で親しみがある。

彼はおかしいのではないかという荒井先生のコメントは、村上春樹にある一面を語っている。このふたつの作品は彼の直接的な面を示している。当たり前の世界を提示している。そのぶだけ読んでいて安心をする。確かなバランスをもって書いていることが分かる。自分の目の回りにあることをしっかりと見つめていることが分かる。その描写は見事であるが、不思議に親しみを覚える。読みながら、規模も資質も全く比べものにならないが、自分もミニストリーで経験したことをニュースレターなどで書いてきたことを思い出した。出会った人や体験したことを私なりに文章化してきたことを思い出した。

村上春樹のこのふたつの作品は、私自身の拙い体験を掘り起こしてくれた。隠れたところでもじゃもじゃしていたものを表に出してくれた。ミニストリーとして体験し感じたことを文章化することを促してくれた。私の拙い文章でも誰かの体験を少しでも刺激することができるかも知れないと思うようになった。体験は全く自分だけのものでありながら、どこかで共鳴を引き起こしていくことが分かった。そんな思いがあってミニストリーとしてのホームページで「ウイークリー瞑想」と「神学モノローグ」を書くようになった。すでに書きだしていたのかも知れないが、大いに刺激されたことは確かである。

 

村上春樹の文章について語ることはできない。ただ彼が情景をそのまま描いていることで、また小説の場合はストーリーを通してある場面を描いていることで、不思議にその中に引き込まれる。当たり前の情景であり、特別の場面でないと思わせる。そのように引き込まれることで共有体験をさせられる。共時性を感じる。村上春樹は自分の文章で何かのメッセージを伝えようとしているのではないとどこかで言っている。共有体験をさせられることで自分のなかに沈んでいたものが引き出される。文章を提供するというのはそのような共有体験の場を提供することだと分かる。他の人との共時性を獲得するためである。

このことはしかし説教者にとっては難しいことである。どうしても何かのメッセージを伝えたくなってしまう。教えたり、伝えるのが使命だと思ってしまう。どんな文章でも最後はお説教になってしまう。そのお説教の部分がなくても充分に伝わるし、逆にないだけ読む人に自由を与えてくれる。そんなこともあって「ウイークリー瞑想」では説教をしないことを心がけている。

村上春樹の文章は読み手に自由を与えてくれる。どのような取り方でもできるような面がある。というよりいろいろなドアがあって、どのドアから入るかでそれぞれの場面が展開されてくるところがある。あるやり取りで、村上春樹の文章が国語の試験問題になっていて、その意味は何か、次のなかから選びなさいと言うのあったと言う。そんなのはおかしいですようねと村上春樹が言っている。とても安心した。国語のこの種の質問にはいつも疑問を持っていた。読む人によって随分異なってくるのではないかと思っていた。村上春樹があっさり言ってくれて安心をした。

『ノルウェイの森』は大学ノートに書き、次の作品からワープロに変わり、最後はマックのパソコンで書くようになったと記している。手書きとワープロやパソコンで書くのと文体に違いが出てくるのかとことで、分からないと言っている。夏目漱石や谷崎潤一郎や三島由紀夫や吉行淳之介の文章はワープロやパソコンでは書けないだろうとも言っている。その辺の機微は分からないが、パソコンの進歩とともに文章を通してのミニストリーの役割が大きくなってきているのは確かである。マックでないと書けないとまで言っているのも分かるような気がする。

 

『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』を読んで村上春樹が身近になった。親しみを覚えた。一見不可思議と思える小説を書いているもうひとりの村上春樹とのバランスがとれてきた。誰もが影の部分を持っている。それが彼の小説に出てくる。誰もが日常の生活を送り、時には旅に出ていく。そこで経験したことがこのふたつの作品で描かれている。小説で描かれていることも自分の一部であることが分かる。小説家だけが特別な人種ではないことが分かる。むしろ村上春樹の苦悩が身近になってきた。

彼の文章も親しみを感じる。一見誰でも書けそうだと思える感じで書いている。あなたも書いていいのですよという感じを与える。少なくとも私はそんな感じを持った。もちろん彼のようには書けない。ただ自分の書きたいように書いたらいいのだという促しを与えてくれる。そんな思いが募ってきて、私がその時経験していた男性だけの集会で出てきたことをまとめてみたいと思った。それで拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』を書くことができた。何とも言えない村上春樹体験である。

自分の文章がどのようなものなのか自分では分からない。ひとりの方が村上春樹の影響を言ってくれた。この方は村上春樹の千駄ヶ谷のジャズ喫茶「ピーター・キャット」でボブ・ディランをリクエストしたこともあると言う。この方も大変な文章を書く人である。信仰の世界のことで真剣にやり取りをしたことがある。それ以来私の文章にも真剣に接していてくれる。その人からも大変な刺激をいただいている。

 

上沼昌雄記

「村上春樹・体験—その2」2006年6月20日(火)

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

 

昨年の12月に映画「ナルニア国物語・第1章・ライオンと魔女」がアメリカで上映された。そして本も読んだ。映画は3月に日本でも上映された。2月のシンガポール、5月の日本、6月のポートランドでの奉仕でナルニア国物語のファンタジーを紹介しながら、パウロがエペソ書の最初でどのように三位一体の神の世界に導かれていったのか語ってきた。三位一体の神はファンタジーではない。ただ現実の世界から神の世界に導かれる道筋を知る上で、手がかりをいただくことができる。

C.S.ルイスはすでに半世紀前に聖書をもとにしてこのファンタジーを書いた。多くの言語に訳され読まれてきた。そして昨年映画化された。聖書の背景を知らなくてもナルニア国物語に引き込まれていく。不思議に意味を捉えることができる。むしろファンタジーで描かれていることで心が自然についていく。誰の心にもある愛や憎しみ、正義と悪の闘い、犠牲と勝利、気づいていようといなくても心の深くで相克している世界がファンタジーで描かれることで深い、静かな納得をいただくことになる。

時代が進み、溢れるような情報に囲まれ、生活様式が安定しているようにみえても、心の不均衡さはいつもついて回る。外からの刺激やもっともらしい命題だけでは人生をやっていけないことを知っている。心はいつも不安定さを抱えている。そんな心がファンタジーで描かれることで、包み込まれるような感じでストーリーに付いていくことができる。物語のある場面が自分の心にあるある断片を語っていることに納得する。教えや命題として無理に納得させるのではなく、ストーリーに沿って自分の心を観ることができる。それだけ安心して受け止めることができる。

パウロが三位一体の神の世界に導かれ、その情景を描いているときにも、彼自身の内的な格闘があって父なる神と、子なる神と、聖霊なる神に結びついていることが分かる。抽象的な三位一体論を書いているのではない。彼自身の心の延長線上に、そこに信仰の闘いと内的な瞑想を通して、三位一体の神の交わりの真ん中に導かれていることが分かる。三位一体の神の麗しい世界が彼の心に反映されているとも言える。神と私たちを結ぶ梯子はない。しかしパウロは不思議に神の世界に導かれているのである。

ナルニア国物語で子どもたちがかくれんぼをしていて、衣装ダンスに隠れたら、そこがナルニア国に通じる入り口であった。思いがけないことでおとぎの世界に導かれた。意図したことでも計画したことでもなかった。それでもそこにあった。パウロも考え抜いて三位一体の神に至ったのではない。当時投獄されていたが、そんな束縛を飛び越えて、三位一体の神の世界に入っている。獄中で気がづいたら三位一体の神の懐に抱かれていることが分かった。どこかで神への入り口に出会った。そして導かれた。不思議な道行きである。

 

そんなことを思っていたときに、似たようなストーリーの展開が村上春樹のどこかの本でなされているのではないかと思った。特に子どもたちが衣装ダンスを通してナルニア国に導かれる筋立てに似たようなものがあるように思った。そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み直してみた。主人公である「私」が計算士として雇われたあるオフィスに行ったところ、そこのクローゼットの中にあった洋服だんすがワンダーランドに通じる入り口であった。

確かにこの小説自体が一つのファンタジーである。その入り口として同じような設定になっていることが分かった。村上春樹がルイスのナルニア国物語を真似をしたと考える必要はない。ファンタジーの世界への入り口が同じような設定で描かれているだけである。その共通性を確認することができた。そしてクローゼットのなかの洋服だんすに導かれるようにして、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み直し、さらに読み返すことになった。最近起こった村上春樹体験である。

その入り口から梯子を何段も降りて行かなければならない。しかも入り口の扉を閉じてしまうと完全な暗闇の世界である。そんなことで始まるこの物語は、下に向かうファンタジーである。闇のファンタジーである。残念ながら上に向かうファンタジーではない。光りのファンタジーではない。下に下に向かうファンタジーである。完璧な闇に包まれるファンタジーである。しかし最後の最後で光が差し込み、上に向いてくる。見事なエンディングである。

主人公「私」が降りていったところは東京の地下鉄の下のやみくろの支配する世界である。その中にあえて研究所を持っている老博士を訪ねていく。その老博士によって「私」の意識の世界が操作されてしまっている。「私」はその時点では何も気づかないのであるが、すでにことは動き出してしまっている。と言うのはやみくろの支配する世界の向こうにと行ったらよいのか、さらにその下と行ったらよいのか、ともかくどこかであり、どこでもないもうひとつの世界にすでに入ってしまっているからである。それが「世界の終わり」の世界である。それは下意識の世界、無意識の世界である。そこでは主人公は「僕」である。

物語は「私」のストーリーと「僕」のストーリーが交互に、しかも連動しながら展開していく。すなわち、意識の世界と無意識の世界が相互に関わり合いながら、どちらが主導とも言えないかたちで進んでいく。主人公はその連動にはほとんどの場合気づいていない。しかし物語としては微妙に相互に関わり合いながら展開していく。もともと無意識の世界は意識されていないわけなので、その関わりを物語として展開しているのは想像を超えた創造力であり、それをストーリーとして記述しているのは大変な文章力である。

主人公は年齢を証している。35歳である。それは村上春樹がこの小説を書いた年でもあった。本としては1985年に刊行されている。作者が30代の半ばに書き上げ、80年代の半ばに刊行されたというのは意味があるのであろう。彼は、当時は単なる言葉の遊びに過ぎないと酷評されたが、時の経過ととにその意味を分かってもらえるであろうと言うようなことをどこかで言っていた。恐らく作者にとって大きな意味合いを持っているものなのであろう。またジョン・レノンの暗殺で始まり、バブル経済絶頂期の80年代の人の心を語っているとも言える。

 

「僕」がどのようにして、またいつ「世界の終わり」の世界に入ってしまったのかは分からない。それは「僕」自身の世界であり、選びようのない無意識の世界である。ただある時点でその選びようのない世界、しかも「世界の終わり」と名付けられた世界にいることを老博士は「私」に示唆する。「僕」はもちろんそんなことは知らない。「私」は言われて、そのような世界があることは分かるけれども、どのようなものなのかは思いつかない。「私」の表層意識の下、深層心理のことである。ストーリーを読んでいる私たちにはその関わりが提示されている。

老博士は「私」の意識下の世界を記号化し、数値化している。数値化したものをヴィジュアル化までしてしまっている。つまり「私」の知らない、気づいていない、意識に上ってこない世界をヴィジュアル化することで、「私」の無意識の世界を老博士は見ている。そこで見た一角獣の頭骨のレプリカをおみやげとして「私」に渡す。勿論「私」はその意味が分からない。ただ何かを示唆していることは分かる。

その一角獣は「世界の終わり」の世界からもたらされる。しかし一角獣は7メートルの高さの壁に囲まれた「世界の終わり」の壁の外に住んでいる。昼間だけ門番に導かれて壁のなかに入って草を食らう。夜になると壁の外で深い眠りにつく。「僕」はそんな獣の生態に関心を持つ。一角獣はただ壁のなかにいる人たちの記憶を吸い込みながら、壁の外に静かに住んでいる。一角獣だけが壁を通って出入りする。誰も壁の外にでることはできない。一角獣だけが壁の外に住んでいる。それで意識の世界に連動してくる。

「僕」は壁のなかに入るために門番に自分の影を預けなければならない。影と切り離される。影は怒る。誰も影を持って「世界の終わり」に入ることはできない。仕方のないことである。決まっていることである。影を失うことは心を失うことである。心を失うことは感性も失うことである。ただことはあるがままに進行し、そこに悲しみも苦しみも感じることはない。同時に喜びも感激もない。ただことは時間のなかであるがままに進むだけである。影がまだ生きているうちは心の残りを持ている。影が死んでしまえば、心は完全になくなってしまう。

「僕」は壁のなかで心を失いつつある。まだ完全には失っていない。影が死ぬまでに心を回復できるかどうか分からない。ただ「僕」は心を回復したいと思う。しかし高い壁に囲まれている。それはまさに「僕」の心の姿である。「僕」の心は閉ざされてしまっている。固い殻に囲まれている。壁はメタファーである。誰も寄せ付けないバリアーである。この物語の最後でそんな姿を「かたつむり」で表現している。

 

「私」のなかでは意識の世界と無意識の世界が、右ポケットと左ポケットのようにきれいに切り離されている言う。老博士はそれゆえに「私」の脳のなかに操作をすることができたと言う。26人に同じ操作をしても、「私」だけが生き残ったと言う。他の人は切り離されていなかったために操作中に脳のなかで漏電のようなことが起こって全員死んでしまった。「私」だけが生き残った。それは無意識の世界が固い殻のように囲まれていたからであると言う。

しかし「私」の脳は老博士によって第3回路にまで結びつけられている。すなわち「世界の終わり」への回路が付いてしまっている。そのことでどのようなことが起こるのか老博士は知りたいと思った。しかしそんな老博士の意図とか関係なしに、回路が結びつけられたことで「世界の終わり」の「僕」にも何かが連動してくる。何かが動き出す。心の回復を願う。そのための苦闘が始まる。「私」はその老博士の研究を盗もうとする人たちのためにとんでもない暴力を受ける。ハードボイルドである。あたかも「私」の壁が打ち破られるための闘いのようでもある。すべてがメタファーになってくる。

「僕」は「世界の終わり」の図書館でそこに備えられていた獣の頭骨を通して夢読みをする。それを助けてくれる図書館の女の子に出会う。「私」は老博士からいただいた一角獣のことを調べに図書館に行ってその図書館の秘書をしている女の子に会う。「僕」は女の子に惹かれるがどうして良いのか分からない。彼女の影はすでに死んでしまっている。彼女のお母さんは影を完全に消すことができなくて、そのために街には住むことができなくて森に住んでいると言う。彼女も「僕」を助けたいと思う。もうひとつの図書館の女の子は一角獣の資料を調べて「私」を助けてくれる。「私」と彼女は近づいていく。

「私」はしかし、老博士によって脳が第3回路まで結びつけらたままである。第1回路、すなわち意識の表層の世界にまで戻らなければ、そのまま意識を失うことになる。それが死を意味するのか、不死を意味するのか分からない。戻るためのデータを敵に全部奪われてしまって、どうすることもできないと結構のんびりしたことを老博士は言う。そのための時間の制限がある。時限爆弾のようにある。

それでも「私」は不思議に自分の回りの世界が気になってくる。よく見えてくる。投げ捨てられた女の子の衣装に目が向いていく。認識がしっかりしてくる。認識がしっかりしてくると責任もでてくる。「僕」も回りの音に心が向いていく。夢読みを繰り返していても出口がないことにいらだちを覚える。何かをしなければならないと思う。影に求められて「世界の終わり」の地図を作る。影が死んでしまう前に助けなければならない。影が死んでしまったら「僕」の心も完全に死んでしまう。「僕」も動き出す。時間の制限がある。厳しい冬が待っている。

 

「僕」にはまだ影がいる。影を残したままで森に追いやられたお母さんの話を女の子がする。お母さんがことばを繰り返して何かを言っていたことがあったという。それが唄であったと「僕」は気づく。ふたりで楽器を探しに行く。森の手前にある発電所の管理人が持っていると門番が教えてくれる。発電所は地下から吹き上げてくる風を電力に代えている。その風は「私」がやみくろの世界を通過するときに地下の穴から吹き上げていた風のようである。そして風を起こして音を出す手風琴を手に入れる。

広い寒々として図書館でふたりだけで心の話をしているときに、彼女はこの手風琴が何かももたらしてくれるかもしれないと言う。「僕」は楽器にさわる。ある音を出し、音階を代えてまた音を出す。そんなことの繰り返しのうちに音の繋がりが「僕」の心に響きをもたらす。何かが響いてくる。何かがまとまりを持って届いてくる。それは「僕」が知っていた唄だった。「ダニー・ボーイ」と気づく。「僕」はしばらくその曲を弾き、心で歌う。心を回復する。心に温まりが出てくる。「ダニー・ボーイ」が心の隅にまで届いてくる。彼女は涙を流す。

同じ時に「私」は彼女と一緒にソファーにいてビン・クロスビーの「ダニー・ボーイ」を口ずさむ。好きなのかと彼女が聞く。小さいときによく歌っていたという。アイルランドの民謡である。お母さんが戦場にでていく息子、ダニーに歌った詩である。ビン・クロスビーが歌っていれば父親の立場になる。あたかも放蕩息子に自分のところに帰ってくるようにと歌っているともとれる。

手風琴という風を吹き出すことで音を出す楽器で、「ダニー・ボーイ」がでてくる。風と愛の唄である。吹く風に弾かれてでてくる愛の唄である。心の響きである。心が響くことでいのちが戻ってくる。今まで失われていた記憶に響きが届くことで生き返ってくる。その響きがさらに余韻のように心の隅にまで広がっていく。「僕」の心は戻ってくる。「僕」の記憶はよみがえってくる。

「世界の終わり」は何と言ってもどんよりとしたいのちのない世界である。その描写に誘い込まれる。そのどんよりと静まりかえった図書館で「ダニー・ボーイ」の曲が奏でられると一面が明るくなる。どんよりと死んだような空気を払いのけるいのちを感じる。何度もこの場面を読んだ。その情景を思い描いてみた。「ダニー・ボーイ」がやさしく響いてくる。世界中の人の心に届いている唄である。

そんなことを思っていたときに、友人の牧師ががフィギア・スケートで金メダルと取った荒川選手がエキジビションで使ったCeltic WomanYou Raise Me Upを教えてくれた。そのアルバムに「ダニー・ボーイ」も入っていることが分かってすぐに手に入れた。ケルトの女性が歌うやさしい響きを持った「ダニー・ボーイ」である。何度も聴いている。この場面を思い起こしながら聴いている。まだビン・クロスビーのものは聴いていない。この本の英訳では「ダニー・ボーイ」の歌詞まで載せている。それも気の利いたことである。

 

「僕」が唄で心が温められているときに、光がどこからか差し込んでくることに気づく。天上の薄い電灯の光りではない。輝くような光りである。それが今まで死んでいたような頭骨からでていることに気づく。その内側から光を放っているのである。そして「僕」の目がその光りに耐えていることに気づく。門番に傷つけられた目は光を受けることができなかった。今その目が癒されていることが分かる。光りを見据えることができる。光りの温まりを心が受け取ることができる。

同じ時に彼女のソファーでぐっすり寝ていた「私」は彼女に起こされる。テレビの脇に置いてあったレプリカの骨が光を放っていたのである。その光も優しさを醸し出すもので、彼女も安心をする。手で触ってみる。その温かみは「私」のなかに何かの癒しをもたらしているように思う。「私」はそれがどのようなものか分からないが、何かの変化が起こっていることを認める。

「僕」はいま光りをたたえている頭骨が抱き込んでいる記憶を読み解いていく。以前よりもはっきりと読むことができる。いろいろなことが結びついてくる。それは彼女の心である。彼女が失った心である。彼女の心がよみがえってきた。「僕」は彼女を特別のように思う。彼女も「僕」を慕っている。愛がよみがえってきた。彼女と一緒にいたいと思う。

しかし影は「僕」の作った「世界の終わり」の地図をたよりに脱出の計画を立てている。「僕」も同意している。それが一番良いと思っていた。それしかないと思っていた。壁は高くてとても脱出はできない。門からは抜け出してもすぐに門番に捕まってします。影が考えついた方策は、南の水のたまりである。そのたまりは生きている。そこだけが地下水を通して外の世界と通じていると確信している。「私」がやみくろの世界から脱出するために通った水のようである。

「僕」は死にかけている影を門番の目を盗んで南のたまりまで連れて行く。そこで影だけを脱出させて「僕」は「世界の終わり」に止まることを告げる。影は当然驚く。しかし「僕」はその理由を言う。それはこの「世界の終わり」は「僕」自身の作り上げたものであると分かったからだと言う。この壁も、その街の川も、獣たちが死んで焼かれる煙も自分が作りだしたものだと言う。それで責任を取らなければならないと告げる。

影はそれを初めから知っていたと言う。ただ黙っていた。「僕」が知らなくても影は知っていた。その影が知っていたことを「僕」がいま知ったので、影がいなくても「僕」は生きられることが分かった。それで「世界の終わり」に止まる決心をした。影はそれ以上説得できないと分かってたまりに飛び込む。「僕」は雪の中を戻っていく。鳥が壁と飛び越えて飛んでいくのが見える。

「世界の終わり」は「僕」がいる無意識の世界である。その「僕」の影はまさに「僕」の無意識の世界である。しかし「僕」はいま自分の無意識の世界のことを自分で知ることができ、新しい目で観ることができ、受け入れることができ、その責任を取ろうとしている。無意識が果たしている役割をいま「僕」は果たそうとしている。心を回復したのである。影を送り出して森で生きなければならないとしても、それよりも責任を果たすことを選び取る。

「僕」は回復した。少なくとも回復に向かっている。壁は今までように固く閉ざされたものでない。どこかでほころびを持ってくる。門番は「僕」をこれ以上縛り付けておくことはできない。冬は終わろうとしている。どこからから新しい風が吹いてくる。そんな不思議な余韻を残してくれる。

「私」はその時を覚悟して迎え入れる。死なのか不死なのか分からない。「私」も自分の置かれた状況をしっかりと受け止めようとする。ボブ・ディランの音楽を聴きながら待っている。ただ「私」は「僕」が回復したことを知らない。「僕」の影が「私」に戻ってくることを知らない。「私」は静かにその時を待っている。

 

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をどのように理解するのが良いのだろうか。私は意識の世界と無意識の世界の連動という視点で観た。といっても心理学者のようにその関わりを解明しようとしているわけでもない。作者が意図していたことでもなかった。それは老博士が取り組んでいた研究でもなかった。村上春樹はどこかで、自分はフロイトやユングの心理学を学んだわけではないとあえて言っているところがある。それを老博士を通して言ってる。

「私」が再度老博士を訪ねたときに、どうして「私」の脳にそんな操作をしたのかを問うたときに答えている。どんな操作してもその人の自発性をどうしたらよいのかという件である。「これを追求していくと、神学上の問題になるのです」と剣呑なことをさらっと言いのけている。すなわち摂理のテーマである。神がすべてを決定していると言えるのかということである。

それで近代以降の研究の成果で、フロイトやユングがでてきて心の世界について様々な成果を発表してきたが、それは語る述語を見いだしただけで、自発性についての解明にはなっていないと言う。老博士によれば「心理科学にスコラ哲学的色彩を付与したというにすぎんですな」となる。心の世界、特に無意識の世界が少し分かってきて、その精神科学をスコラ的な概念での置き換えをしているに過ぎないとなる。すなわち形而上学的な言葉、記号の遊びに過ぎないとなる。

老博士はそんな理論のための議論をしている閑はないという。現実的に脳に回路を結びつけることでどのような効果が出てくるのかを考える。そのために生じる障害を除こうとする。それは悪の手に渡ってしまったら大変危険なことであると分かっている。それでやみくろ除けの装置を付けて東京の地下鉄の下にあえて研究所を作って、誰も近づけないようにした。

 

村上春樹はまさに、この老博士を通して言わせたような姿勢でこの無意識の世界を取り扱っている。精神科学や心理学のテーマとして説明を施しているのではなくて、意識と無意識の世界を小説としてストーリーのなかで展開することで、自分の課題として提示している。自分の意識下に自分で気づいていなくてももうひとりの自分が影のように存在している。その影は自分のことを良く知っていてだけでなく、多くの場合にコントロールさえしている。そのことを小説家としてストーリーでもって展開している。

それではどうしたらよいのかという問いを驚きを持って自分にぶつけている。村上春樹の小説の主人公は結構複雑な問題を抱えている。少なくとも問題を抱えていると主人公はどこかで気づいている。それは外に向かうものではなくて、内に向かっている問題である。すなわちそれで人に危害を与えるようなものではなくて、自分だけが気づいていて苦しんでいる心の問題である。それで犯罪のように社会問題なるというものでない。しかしそのことが人を傷つけてしまうことになることを知っている。

『国境の南、太陽の西』の「僕」はそのように人を傷つけてきた。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」はむしろ老博士のゆえに、彼の研究をねらっている敵に文字通りに体に傷を受ける。しかしそのようなとんでもないことに自分が巻き込まれるスキを持っていることは分かっている。自分のなかに感情的な殻をしっかり持っているために外の刺激に無感動に耐えることができる。だから誰かが「私」を玄関マットのように踏みつけていってしまう。それで思いがけなことに巻き込まれてしまう。

それで変に人生に疲れている。疲労感にとりつかれている。「人生の中心からふつふつとと湧きおこってくる疲労感」を感じている。人生がどうでもよくなっている。離婚をしていてもそれに対しての感情もない。奥さんがある日突然でていってもその原因を探ることをしない。そのままである。あるがままにことは動いている。それはまさに閉ざされた「世界の終わり」である。そこにいる「僕」である。

その閉ざされた世界の壁のことを、「私」はまさに傷つけられてベットに横たわってスタンダールの『赤と黒』の主人公のジュリアン・ソレルの人生に同情しているときに気づく。15歳で自分の人生の要因が固定されてしまっているのは、逃げられない監獄に閉じこめられているのと同じだと思う。それは壁に囲まれているのと同じだと思う。そして壁のことが心に浮かぶ。「僕」はまさにその壁のなかにいる。

 

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のストーリーは、「私」の物語と「僕」の物語りが奇数の章と偶数の章と交互に続く。意識の世界と無意識の世界が相互に連動している。しかし解決は「僕」の世界で始まらなければならない。その意味では無意識の世界で支配されている。どのように関わり、どのように支配されているのかをストーリーのなかで見いだしていくのは結構な作業である。もともとどのように関わり、どのように支配されているのかは精神科医、心理学者でも分かっているわけでない。関わりがあるということは分かっていても、どのようにとなると必ずしも明確でない。それを村上春樹はストーリーを設定することで提示している。その微妙な関わりを伏線としてしっかりと織り込んでいる。

壁に閉じこめられた「世界の終わり」は主に秋から冬にかけての描写である。黒い雲に覆われ、じっと時の流れをそのままに過ごしていく。ことはすでに決まってしまっている。それを繰り返していても飽きることはない。心を失っているからである。ただ定められたことをそのままやり過ごすだけである。そしてまもなく雪に覆われる。そんな情景を思い描くことができる。

その冬の雪の情景は、「ナルニア国物語」で衣装ダンスを通して入っていって最初に出会ったのが魔女に支配されている氷の世界、雪の世界であることと結びつく。私たちの氷付いた心を語っている。いのちのない、すべては氷のなかに閉じこめられた世界である。愛のない、躍動のない世界である。ルイスがナルニア国に入る入り口に設定した氷の世界と、村上春樹が「世界の終わり」で設定した雪に閉じこめられる世界が共鳴してくる。

「ナルニア国物語」の冬の雪の情景が契機で、この「世界の終わり」の描写にことさらに心が向いていった。そして不思議に、また逆説的に慰めを覚える。それは取りも直さず私自身の心の描写であるが、描かれていて読むことができ、自分の心でまた描き直すことで、不思議に納得できるからである。ストーリーの「私」と私は随分違っていても、ストーリーの「僕」と私とは意外に近いことが分かるからである。そんな姿をみることでことで重しの付いたような納得が心の深くに収まっていることが分かる。

表層の世界、意識の世界では人はそれぞれ違う。しかしその表層の皮の下の世界では不思議に水脈が通じていて共通の世界が開かれている。その世界をストーリーとして提示することで、多くの人に届いてくる。メタファーであり、ファンタジーであることで多くの人が「世界の終わり」を共有できる。概念でも、命題でも、原則でもない。心を取り込む物語である。

おそらく村上春樹がこの小説を書いた80年代の半ばは、激動の60年代、70年代を終えて経済的にも安定してきて表層的には満たされてきたときなのであろう。しかし同時にその表層の皮をむいた一枚下の世界はより複雑になり、混迷になり、闇を増していったのであろう。村上春樹はそれを感じ取ったのであろう。あるいは先取りしたのかも知れない。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は確実に人の心を捉えてきている。20年以上経っても新鮮な響きを漂わせている。むしろ時と共にその意味がより増してきているかのようである。

 

聖書の福音は本来、この表層の皮を一枚むいた世界にまで届くものではないかと思う。現実には表層の世界で止まってしまっている場合が多い。福音が概念化され、記号化されてしてしまってクリスチャンの表層の世界にただのしるし、記録のように停止してしまっている。聖書には命題化できない世界がある。命題化することは聖書ある部分を切り捨てることになる。そして意識の表層の世界の出来事で満足してしまう。意識のなかでのやり取りとして操作を始める。多くの場合にそのやり取りを安定化し、固定化することでそれぞれのグループのあり場を決めている。すなわち、教派や教会のあり場を決めている。それで安心している。

聖書が概念の世界でなく、物語の世界であり、たとえの世界であるのは、表層の世界の皮を剥ぎ取っても福音がなおその下に届いていくことを意味している。下意識の世界、無意識の世界にまでいのちを与えていくことを意味している。もちろんはじめから無意識の世界を認めない強い傾向ある。福音による変革は意識の世界、すなわち理性と意志で成し遂げられると思っているところがある。しかし現実には何も変わっていないことを知らされる。表面的に変わったに過ぎない。心の深くはそのままである。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は取りも直さず、福音が心の深くに届くにはどうしたらよいのかという大変な問題提起をしている。フロイトやユングの言っている意味での無意識の世界をあえて考えなくてもよい。ただ心の深く、どこか分けの分からないところで闇のようにあって、私たちを動かしている世界と言ってもよい。そんな世界にまでどうしたら福音を届けることができるのか問われている。

村上春樹もあえて意識・無意識というパターンを避けているところがある。そのような理論付けは信じていない。ただ作家として真摯に取り組んでいる。彼のそのような心が読者にも届いている。それに対してプロテスタントの福音派の福音提示はあまりにも命題的あり、それだけ教訓的であり、心が離れてしまっている。多分に心の深くで求めを感じている人の上を通過してしまっている。深いズレがある。

 

「世界の終わり」で「僕」は手風琴でようやく唄を思い出す。何度もそれを奏でる。その響きが心の隅々に届いていく。そして頭骨に光が輝いていく。光りの温かみを増していく。凍り付いた心が溶かされてくる。「ナルニア国物語」で氷付いた人たちがライオンの息で溶かされるように溶かされていく。深い遠い記憶が糸を辿るようによみがえってくる。失ったものを回復する。心がよみがえる。福音はそのように心の深くに届いていく。

ダビデは罪を犯して神の前から逃げていった。天に上っても、神はそこにいることを知る。よみに床を設けても、神はそこにいることを知る。結局自分の心の闇の世界に逃れても神から離れられないことを認める。認めることでやみも暗くないことを知る。そして言う。「罪ある者として母は私をみごもりました。」心の闇の奥に光りを届けることができた。闇の奥は母の胎にも通じている。そこにも神はいる。

パウロは神に喜ばれたいという思いとは別に、自分のしたくなことをしてしまうもうひとりの自分がいることに気づいて驚き、苦しむ。自分の心を探っていく。心の底に住みついている罪を知る。愕然とする。自分ではどうすることもできないことを認める。神が心の底にまで介入することを認める。神の恵みにすがる。パウロはただ恵みによって今の自分であることを知る。

自分の心の深くに、そこが闇に覆われた暗闇であっても、聖書と共に下りていくことができる。「やみを隠れ家」としている神に出会うことを知っているからである。光りが届き、新しい風が吹き込んでくることを知っているからである。失ったものが見つかり、心が回復してくるからである。

 

上沼昌雄記

「村上春樹・体験—その1」2006年6月12日(月)

『国境の南、太陽の西』

 

9年前にある人から「いまの自分の心を一番よく語っている」と言って村上春樹の『国境の南、太陽の西』の文庫版が送られてきた。その数週間前に日本で奉仕をしていたときに、その奥様から家を出て別居状態になったという連絡をいただいた。二人の結婚式に関わっていたこともあって責任を感じて、回復を願ってこの方に接触を試みた。その返事としてこの本がアメリカの住まいに送られてきた。

残念ながらこの方との連絡はその後切れてしまった。そのためにこの本は彼の言う「自分の心を一番よく語っている」という意味を知るための謎解きとなった。また同時に私にとって村上春樹の作品に接する契機ともなった。村上春樹の名前はベスト・セラーになった『ノールウエーの森』で知っていたが、読んだことはなかった。ただの現代作家のひとりだろうと思っていただけだった。

しかし送られた本を読んで何か惹かれるものがあった。謎が深まった部分もあった。それで『ノールウエーの森』から始めて全部の作品とは行かないのであるが、かなりのものを読んできている。まさにはまってしまったのである。よく村上春樹の話をし、拙書にもその一部を書いてきた。もともと小説を好んで読んできたわけでない。どちらかというと思想関係のもの、神学と哲学に関するものを読んできた。大学の時の友人は、いま私が小説を読んでいるのが信じられないと言った。自分にとっても不思議なことであった。

村上春樹の作品は、私のなかであちこちに散らばっていた想いというか、取り扱って来てはいるがそのままにしてあったものをもう一度考え直すと契機になった。ある時点でそれなりに考えていたと思うこと、またそういう課題が自分の人生でもあると気づいていながら、それらがそのままにファイルに閉じこめていたものが開けられるような経験をすることになった。多分彼の作品にはいろいろな場面があって、それこそ読む人の心にあるいろいろな襞に、まさにいろいろなかたちで引っかかっていくのであろう。

そんな経験をまとめてみたいと思った。私なりに9年間村上春樹の作品と付き合ってきて一度整理をしたいと思うようになった。といっても彼の作品を批評する気はないし、そんなことはできない。ただ彼の作品に接することで私のなかに起こったことをまとめてみたいと思った。それは村上春樹の私のなかの体験である。それで「村上春樹・体験」というタイトルを付けてみた。

その意味で『国境の南、太陽の西』はまさに思いがけない村上春樹体験であった。そしていまだにその人が言う「自分の心を一番よく語っている」という意味の謎解きになっている。こうなのかなと思うときがあり、またそうでもないのかなと思うときがある。それは多分その人が納得しているのと、私自身が感じることはもともと違うからのであろう。村上春樹の作品がそのような多様性を初めから持っているのであろう。そうなので謎解きなのであるが、結局は謎を解こうとしている私自身の体験になる。

 

『国境の南、太陽の西』は「致命的な欠陥」を抱えているという主人公「僕」の小学5年生から、37歳までの物語である。書き出しに「僕」が一人っ子であることで「何かが欠けている」思いに悩まされてきたと言う。作者自身もそうであると言う。恐らく誰もが「何かが欠けている」ことを感じながら人生を送っているのであるが、「僕」の場合には一人っ子であることが現実的に、メタフォリカルにその感覚をもたらしたのであろう。

その5年生の終わりに引っ越しをしてきたもうひとりの一人っ子の「島本さん」に「吸引力」のように引かれて、二人だけで音楽を聴いたりして満たされた時を持った。中学で学校が違い別れてしまったのであるが、「僕」が36歳の時に彼の前にもう一度現れてくる。そして同じ「吸引力」に引かれて、彼女と一緒に「太陽の西」にまで行ってしまいそうになる。

「僕」は高校の時の彼女「イズミ」を裏切ってしまう。理性をも何も吹っ飛んで彼女の従姉に走ってしまう。その従姉もひとり子だった。「吸引力」で止めることができなかった。イズミを裏切り、傷つけることが分かってもそうしないわけに行かなかった。結婚して娘二人がいても、しかもそれなりに満足できる結婚をしていても、「島本さん」が現れたときにはどうしようもなく、止めることもできないで、傷つけてしまうことも分かっていても、彼女と一つとなることを求めてしまう。

島本さんも大変は欠陥を抱えている。「僕」を誘うことは死に誘うことでもあった。彼女には「中間」はなかった。ヒステリア・シベリアナとい精神風土的な病気の話をする。シベリアの農夫が全く何もない荒野で毎日のように畑を耕しているうちに、ある日何かが切れて、鍬を放り出して、西に沈む太陽に向かって憑かれたように歩き出し、そのまま死んでしまうと言う。その「太陽の西」には何もない。

島本さんは消える。「僕」は妻「有紀子」のところに帰ってくる。当然妻を傷つける。有紀子は「別れたいのか」と聞く。「僕」は「分からない」と言う。有紀子は「いつかきっとこういうことが起こるだろうとは思っていたの」と言う。「僕」は言う。「でも正直に言って、同じようなことがもう一度起こったら、僕はもう一度同じようなことをするかも知れない。僕はまた同じように君を傷つけるかも知れない。」

 

と言うのが私なりの『国境の南、太陽の西』のあらすじであり、理解である。別の人は別の理解が成り立つ。村上春樹の作品にはいろいろな窓が開けられていてどこの窓を開けるかで家のなかの情景が違うように、読む人によって見る世界がち違っている。それを作者として許しているところがある。

それでこの本を送ってくれた人もその人の理解があってこの本が「自分の心を一番よく語っている」と言っているのあって、その意味を完全に知ることはできない。ただ私ながらにこのストリーをまとめながら推測しているだけである。当たっていなくてもよい。なぜならばその推測は私自身の課題だからである。つまり、この人の問題を村上春樹の本を手がかりに理解しようとしている私自身の視点が問われるからである。この人が差し出した謎解きをしても問題が解決するわけではない。この人の問題をどのように見ているのかが問われる自分の課題である。

この人は「致命的な欠陥」を抱えている「僕」と同一視することで、奥さんとこのようになってしまったことはどうにもならないと言おうとしているのだろうか。そのために他の女性に走ってしまったとしてもそれは「吸引力」によると言っているのだろうか。それにしても随分若いときからお互いを知り合っていて結婚をしたので、互いを必要としているという深い理解の上に彼らが歩んできたのだと思った。たとえ障害があっても乗り越えられるものと思っていた。

「致命的な欠陥」は誰もが抱えている。多くの場合にその欠陥を埋めるために一生懸命に勉強をし、仕事をしということで一時的に満たすことを求め続けて人生を終わってしまう。それに気づくことはそれなりに厳しいことである。この本では「一人っ子」というのはメタファーである。誰もが自分のことしか考えられない。自分の世界を越えることができない。人生で決定的なものを失っても、求めることもできなし、求めることもしない。自分の世界に閉じこもってしまうために、思いがけないところにはけ口を求めてしまう。

この人もそんな欠陥にこの出来事を通して気づいたのだろうか。もしそうであれば、それは積極的に捉えられることである。人生を振り返る大きな手がかりである。村上春樹の作品にはこの「致命的な欠陥」を書いた人のことが結構テーマになっているように思う。誰もがそれを感じているので共感をするのであろう。私にも響くものがある。

 

もうひとつ考えられるのは、島本さんが話したヒステリア・シベリアナの「太陽の西」のことである。シベリアの農夫はある日、自分のなかの何かが切れてしまって、西に沈む太陽に向かって飲まず、食わずで歩き続けてそのまま倒れるように死んでしまうのである。この本のタイトルの意味である。島本さんにはすでに何かが切れてしまって死を求めている。それ以上に自分の人生に何も求めていない。それはすでに死んでいることである。

この本を送ってくれた人も同じことを言いたかったのであろうか。自分のなかで持ち堪えてきたものが切れてしまって、もうどうでもよいと言いたかったのであろうか。彼はいままで築いてきたものを全部投げ捨てることになった。それでも結婚の回復を願っていなかった。もう取り返しがつかないと決めてしまったかのようである。自分の人生は死んだと言いたかったのであろうか。それでも助けを求めていたのであろうか。この人の心を知りたいと思った。しかし残念ながら音信が途絶えてしまった。

「僕」も憑かれたように「太陽の西」に向かって歩いていく。それで良いと思う。それを自分でも止めることができない。「致命的な欠陥」が駆り立てている。「その欠陥は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ」と言う。中年に近づいて誰もがそんな衝動に駆られるのであろうか。この人も同じように引かれるように「太陽の西」に向かって行ってしまったのであろうか。自分の「致命的な欠陥」に気づくことは危機である。それは蓋をしてしまっても解決にならない。向き合う以外にないのであろう。

「致命的な欠陥」は親を欠くことで始まる。親の愛を欠くことで致命的になる。兄姉がいないことで欠けになる。幼児時代に遊びがなかったことで欠けになる。受験に失敗したことで欠けになる。失恋で欠けになる。そして様々なことで欠けに気づかされる。欠けが生み出している衝動に気づかされる。満たされることを求める。衝動になる。それがその人の性格にまでなる。『国境の南、太陽の西』が惹きつけるものはこの「致命的な欠陥」なのかも知れない。

 

そして私が村上春樹の作品に個人的に惹かれるのは、そんな欠けを持った主人公が何とか回復を求めていることである。島本さんは消える。「僕」は妻のところに帰ってくる。彼女は死を願う。しかし言う。「ともかく私が死ななかったのは、私がとにかくこうして生きていられるのは、あなたがいつかもし私のところに戻ってきたら、自分がそれを結局は受け入れるだろうと思っていたからなのよ。」

「僕」は妻によって救われる。それは彼女の愛と言ったらよいのであろうか。そんなことばでは当てはまらない深さを持ったものである。村上春樹の作品にはさまよえる主人公がいて、それを助ける天使のような人物がいつもいる。ほとんどの場合女性である。この作品では「僕」の妻である。彼女の包容力に包まれると言ったらよいであろうか。彼女も大変な欠けを抱えている。それでも「僕」を受け入れる。

彼女は言う。「あなたは何もきっと分かっていないのよ。」「たぶん僕には何も分かってないのだと思う」と「僕」は言う。「そしてあなたは何も尋ねようとしないのよ」と彼女は言う。どうして尋ねようとしなかったのか「僕」は考える。メタファーである「一人っ子」を抜け出さなければならない。抜け出すように彼女は誘う。ナット・キング・コールが歌う「国境の南」には何かがあると思わせている。

結婚は互いが自分の世界を抜け出すための契機なのかも知れない。「一人っ子」というメタファーを誰もが抱えている。結婚はそんな「私」を破壊するための爆弾なのかも知れない。そのためには互い傷つく。それでまた乗り越えなければならない障害を知らされる。相手に尋ねること、その人の言うことに耳を傾けること、そんな根源的な作業をさせられるのが結婚である。根元的であればあるほど破壊的でもある。また創造的でもある。

 

上沼昌雄記