一週間前の夜更けに動物の鳴き声が聞こえました。犬の遠吠えや
時には動物たちの争いの声が聞こえるのですが、それは何ともかわ
いらしい鳴き声でした。屋内の電気を消して、外灯をつけて様子を
見ていました。白っぽい小さなものが木陰から出てきました。その
動きを追うように寝室の窓に移動してみると、かわいらしい狐があ
たりの様子をうかがいながら、立ち止まったり、窓の近くに来たり
していました。灯りに照らされた狐の体毛は黄色く輝いていまし
た。そしてまもなく別の木陰に消えていきました。
この夜の闇の中でどのような動物たちの世界が展開されているの
か、何も知らないよねと妻と驚嘆しました。以前は猫や犬の餌を
狙って狸が出てきました。ゴミ箱をあさりにきた熊も2,3
回見ました。 野生の七面鳥や鹿は我が物顔に通過していま
す。それ以上に全くこちらが知ることも、気づくこともなく、マウ
ンテン・ライオンも真夜中に活動しているようです。そんな暗闇の
なかの動物たちの動きを観察できたらば、何かファンタジーが生ま
れてきそうです。
嵐の中からヨブに答えられ神の答えから、そんなこちらが知り得
ない、見ることもできない世界が、神の手の中では、私たちが見て
知ることができる世界と同等に置かれていることがわかります。オ
ホーツクの真っ暗な海も、オホーツクの海底の名前も知らない魚
も、光の下に出されて見えるものと同じように取り扱われていま
す。 むしろそのような、こちらが知り得ない、また見えない
世界そのものが、あのヨブへの答えであることに、脳天を突かれて
眼を開かれます。
あの狐の姿がその後、脳裏に浮かんでくるたびに、「狐には穴が
あり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」
(マタイ8:20,ルカ9:58)というイエ
スのことばを思い出します。狐がどこの穴で身を潜め、鳥がどの巣
で卵を産み、雛を育てるのか、イエスはあたかも見ているかのよう
に言います。雨降りのなかで、嵐の中で、動物たちがどこでどのよ
うにしているのか見たこともありません。それでも鳥たちは雨が上
がれば嬉々として出てきます。夜を待って身を潜めていた狐が可憐
な姿を見せてくれます。
そんな創造の世界が神の現実としてあるので、人の子には枕する
所もないというのが対比としてより現実になります。単なる比喩で
あって実際にはイエスが自分のことを強調しているのだということ
以上の現実感があります。自分の外の世界も現実であり、自分の世
界も現実であることが有機的に結びついてきます。単なる心の世
界、精神的な世界、霊的な世界だけを見ているのではないのです。
谷川の水を飲んでいる鹿も、岩場で迷っている羊も、哀れな一羽
の雀も、神の現実であり、私たちの心の現実でもあるのです。それ
はヨブへの答えとして河馬やレビヤタン(わに)をだして具体的に
示した神のやり方なのです。自分勝手に思いがちな私たちを、そし
て自分の小さな世界だけに閉じこもりがちな私たちを、外の世界に
向けさせることで、驚きに満ちた神の御手を気づかせる神のやり方です。
上沼昌雄記