「狐には穴があり」2010年2月22日(月)

ウイークリー瞑想

 一週間前の夜更けに動物の鳴き声が聞こえました。犬の遠吠えや
時には動物たちの争いの声が聞こえるのですが、それは何ともかわ
いらしい鳴き声でした。屋内の電気を消して、外灯をつけて様子を
見ていました。白っぽい小さなものが木陰から出てきました。その
動きを追うように寝室の窓に移動してみると、かわいらしい狐があ
たりの様子をうかがいながら、立ち止まったり、窓の近くに来たり
していました。灯りに照らされた狐の体毛は黄色く輝いていまし
た。そしてまもなく別の木陰に消えていきました。

 この夜の闇の中でどのような動物たちの世界が展開されているの
か、何も知らないよねと妻と驚嘆しました。以前は猫や犬の餌を
狙って狸が出てきました。ゴミ箱をあさりにきた熊も2,3
回見ました。 野生の七面鳥や鹿は我が物顔に通過していま
す。それ以上に全くこちらが知ることも、気づくこともなく、マウ
ンテン・ライオンも真夜中に活動しているようです。そんな暗闇の
なかの動物たちの動きを観察できたらば、何かファンタジーが生ま
れてきそうです。

 嵐の中からヨブに答えられ神の答えから、そんなこちらが知り得
ない、見ることもできない世界が、神の手の中では、私たちが見て
知ることができる世界と同等に置かれていることがわかります。オ
ホーツクの真っ暗な海も、オホーツクの海底の名前も知らない魚
も、光の下に出されて見えるものと同じように取り扱われていま
す。 むしろそのような、こちらが知り得ない、また見えない
世界そのものが、あのヨブへの答えであることに、脳天を突かれて
眼を開かれます。

 あの狐の姿がその後、脳裏に浮かんでくるたびに、「狐には穴が
あり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」
(マタイ8:20,ルカ9:58)というイエ
スのことばを思い出します。狐がどこの穴で身を潜め、鳥がどの巣
で卵を産み、雛を育てるのか、イエスはあたかも見ているかのよう
に言います。雨降りのなかで、嵐の中で、動物たちがどこでどのよ
うにしているのか見たこともありません。それでも鳥たちは雨が上
がれば嬉々として出てきます。夜を待って身を潜めていた狐が可憐
な姿を見せてくれます。

 そんな創造の世界が神の現実としてあるので、人の子には枕する
所もないというのが対比としてより現実になります。単なる比喩で
あって実際にはイエスが自分のことを強調しているのだということ
以上の現実感があります。自分の外の世界も現実であり、自分の世
界も現実であることが有機的に結びついてきます。単なる心の世
界、精神的な世界、霊的な世界だけを見ているのではないのです。

 谷川の水を飲んでいる鹿も、岩場で迷っている羊も、哀れな一羽
の雀も、神の現実であり、私たちの心の現実でもあるのです。それ
はヨブへの答えとして河馬やレビヤタン(わに)をだして具体的に
示した神のやり方なのです。自分勝手に思いがちな私たちを、そし
て自分の小さな世界だけに閉じこもりがちな私たちを、外の世界に
向けさせることで、驚きに満ちた神の御手を気づかせる神のやり方です。

上沼昌雄記

「死が聞いたといううわさ」2010年2月10日(水)

神学モノローグ

 ヨブ記28章は何という章なのであろうか。神の知恵の出所
の神秘と言ったら良いであろうか。人は、鉄も銅も銀も金もその出
所を見いだし、光の下に引き出すことができる。しかし、知恵と悟
りをどこにも見いだせない。なぜ無用な苦しみを受けなければなら
ないのか、その答えをどこにも見いだせない。深い淵も「私の中に
はそれはない」と言い、海も「私のところにはない」(14
節)と言う。それはオフィルの金でも、サファイアでも、エチオピ
アのトパーズでも代用することができない。

 そのうえで、「では、知恵はどこから来るのか」(20節)
とヨブが自問する。「それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥
にもわからない。」(21節)そして不思議な表現が続く。
「滅びの淵も、死も言う。『私たちはそのうわさをこの耳で聞いた
ことがある。』」(22節)レトリカルな言い回しである。そ
れでも、すべての生き物の目に隠されていて、ただ死はそのうわさ
を耳にすることができる。ヨブがどこかでこの世界を超えたところ
で知恵を聞き出そうとしている。それは取りも直さず神の道であ
る。それで続く、「しかし、神はその道をわきまえておられ、神は
そのところを知っておられる。」(23節)当然ヨブも知るこ
とができない。ただ死だけがそのうわさを聞いた。

 ホロコーストの生き残りで、ユダヤ教徒の哲学者レヴィナスが、
ナチスに関わったハイデガーの存在の問いの哲学に対して、「他
者」の哲学を打ち出すことで戦後のヨーロッパに新しい道を切り開
いた。同じユダヤ人の詩人で両親を強制収容所で失い、自分も強制
労働をさせられたパウル・ツェランが、どこかでハイデガーの思索
と詩作に惹かれながら、逆にハイデガーを自分の詩のなかに引き込
んでしまったという、何とも不可解な関わりで戦後の思想界の複雑
さを示している。

 「死のフーガ」という戦後すぐに出た詩がある。パウル・ツェラ
ンの初期の代表作である。この詩はしかし、「アウシュヴィッツ後
に詩を書くことはもはや野蛮だ」という哲学者アドルノの言葉を覆
すことになった。しかし同時にそれは、パウル・ツェランを四半世
紀後には死に追いやることにもなった。

 600万の同胞の死、そこに含まれる母の死、その死に耳を傾
け、その死だけが聞き届ける声を詩に変える作業。そんな声々を、
パウル・ツェランは、夜の闇に、海に、砂浜に、木々に、植物たち
に、昆虫たちに、風に、鳥たちに、灰に、じっと耳を傾けて聞こう
とする。自死の3年前に歌う。「糸の太陽たち/灰黒の
荒蕪地のうえ。/一つの木の/高さの思念が/光の
音色をさぐり奏でる、――まだ/歌うべき歌がある、人間たちの/
彼方に。」

 そんな世界にハイデガーが引き込まれていく。ハイデガーは、存
在そのものの思索は詩作でしか表されないとみる。ヘルダーリンの
詩の解明に全力を注ぐ。そのヘルダーリンの向こうにパウル・ツェ
ランをみた。それは歴史の悲劇であった。

 人間たちの彼方に、まだ聞くべき知恵があるとヨブは気づく。そ
れは死だけがうわさとして聞くことのできるもの。そんな死がかつ
て大きく口を開いた。そして何とかその口を閉ざそうとしている。
美しい神学もそれに加担している。そんな美しい神学にヨブは聞き
飽きたと言う。ヨブは何とか死だけが聞いていたうわさに近づこう
とする。そしてまもなく神は嵐の中からヨブに答えられる。

上沼昌雄記

「おどろきとおののき」2010年2月1日(月)

神学モノローグ

 網走から北に100キロのオホーツクに面した街、紋別の港から300
メートルほど沖合にあるオホーツク・タワー。海底と海上30
メートルほどの展望台。流氷シーズン前の静かな一時。海底にある
16ほどの窓。私たちだけの展望台。ただ私たちだけを待っていてく
れたようなこの時。海底の一つの窓で出会った名も知れない魚。展
望台から水平線上に浮かんでいる一条の白い帯。備え付けの望遠鏡
で確認できた流氷の挨拶。何とも不思議なこの名も知れない魚と、
思いがけない流氷との出会い。しるし、今回の日本の旅。

 神のヨブへの最終的な回答、「わたしが地の基を定めたとき、あ
なたはどこにいたのか。」(38:4)そしてその続き、「あなた
は海の源にまで行ったことがあるのか。、、、あなたは地の広さを
見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げて
みよ。」(38:16,18)ヨブへの答え!?

 今月末出版予定の『父よ、父たちよ』の最終稿の校正と三位一体
の神のチャートと表紙デザインの確認。アブラハムがイサクをささ
げることと恵みの継承についての3回の説教。「家庭における
父親の意味」と「家族を通して宣教を考える」のセミナー、父親に
ついて分かち合った男性集会、父親のことと子供の反抗のことにつ
いて語り合った数名の友人。両親の離婚のことを分かち合ってくれ
た3名の独身の男性。ご自分の離婚のことを子供たちに説明を
して、同時に息子さんから正直な意見を聞けたことの証言と、その
息子さんとの会食。

 そんな父親のことを取り上げているときに、個人的には話ができ
なくとも、父親のことでその人の心の深くで何かが動き出している
ようなためらい。思い出したくない、しかしいつも引っかかってい
ることが浮かんできて、そのことでの心のおどろき。そこにまで神
の恵みを届けていくことの赦しの大きさへのおののき。何か自分の
心の海底に初めて入って、名もないドロドロした父親への感情に出
会ってためらっている表情。話を聞きながら自分の心の出てきた名
もない魚を見つめている様子。

 父親のいやな記憶。それは父親のことの記憶でありながら、それ
は取りも直さず自分の記憶であること。そんな記憶を持っている自
分として神の恵みで救われ、生かされていること。とするならば神
はその記憶にまで届いてくれるという信仰。それによって父親から
解放され、御霊の自由をいただけること。神の前での私であるこ
と。後ろのものを忘れて、水平線上に浮かんでいる一条の光をたよ
りに進んでいくことができる喜び。おどろきとおののきが静かに浮
かんできている様子。

 身近な家族での従順なお嬢さんと反抗的なお嬢さんの話。どちら
がその人の人格に長い目でいいのだろうかと語り合った同志。従順
すぎるとその人自身が人格的に独立できないで最終的に苦しみ、反
抗的な場合は結果的に人格の独立をもたらすことの互いの結論に、
わが意を得たりと言わんばかりに「その意味では俺は救われている
のだ」と喫茶室で大声を上げた同志。父親と殴る蹴るの格闘をした
こと、そのことの後悔と解放。もう俺は父親を憎んでいないと晴れ
やかに語った顔。

 いまだ見たこともない心の海底、はるかに望み見る水平線上の一
条の白い線。そこまで行ったことがあるのか、そこまで極めたこと
があるのかと問いかける神。留まっていたら駄目になる私たちを、
どこかに引き出そうとしておられる神の配慮。恵みの浸透を最大限
に引き延ばそうとされる神の計らい。思い切ってオホーツクまで来
たことで知らされたおどろきとおののき。そのように誘ってくれた
友人ご夫妻の愛。凍り付いたオホーツクの海辺で拾った小さな流木の夢。

上沼昌雄記