「スラッツおばあさん」2009年7月27日(月)

ウイークリー瞑想

 20年前に東京から、カリフォルニアの片田舎フォレストル
に家族に移り住みました。その教会に黒人の一家族がいました。そ
のご主人は召されて、93歳になるスラッツおばあさんがお元
気でいます。礼拝の前に誰にでも大きなハッグをします。体が特に
大きいわけではないのですが、その身振り、顔の表情、かける声か
らとてもおおらかな、まさに母親に抱かれるような感じを与えま
す。誰からも「スラッツおばあさん」として親しまれています。私たちの
3人の子供達にとっても偉大なグランドマザーでした。今でもそうです。

教会は今牧師を捜している状態です。候補者が交代で説教に来てい
ます。昨日はその関係はないのですが、このスラッツおばあさんの
お孫さんが、サンフランシスコ近辺から来てくれました。お孫さん
と言っても50歳近くにはなっていると思います。大統領選挙
に絡む発言が一つの経緯になって、前の牧師が去りました。直接に
は、スラッツおばあさんの10人の子供さんの末娘の方が関わ
りました。

フォレストヒルは、ゴールドラッシュの歴史の街です。今は、サク
ラメントのベットタウンといった感じです。スラッツおばあさん一
家は、戦争直後に木材関係の仕事で南部から移り住んできました。
そのような人たちが住み着いた一角がこの町にあります。ある種の
差別を受けてきたようです。何度か行き来をしながら、そんな歴史
を知ることになりました。牧師の政治的な発言で教会に来なくなっ
たときにも、訪ねていって話を聞きました。まさに、アメリカの一
端を知りました。

昨日は、従兄弟家族も駆けつけていました。気負うこともなく、静
かに、それでいて恵みにあふれて、キリストの払った負債の大きさ
を、マタイ福音書18章の、地上の王とそのしもべとの間の借
金の返済のたとえから語ってくれました。その前の週は、ある候補
者が自分を売り込む話だけをしていきました。何ともいやな感じを
持った後なので、ただ神の恵みの深さを淡々と語るメッセージに新
鮮な感動を持ちました。この地上にただ自分だけが住んでいたとし
ても、なお御子キリストを遣わしてくださる神の愛です。

そんなメッセージを聞きながら、そんなお孫さんの姿を見ながら、
スラッツおばあさんはさぞ心の中で誇りに思ったことでしょう。自
分の孫の誰かが同じように恵みに満たされて説教している姿を見た
らばと、想像するだけで心躍ることです。帰りの車のなかで妻が、
それはスラッツおばあさんの信仰の遺産だと強調していまし
た。10人の子供さんを困難のなかでも神の恵みと信仰によっ
て育て上げてきた、その報いを今いただいているのだと繰り返して
いっていました。妻も自分の孫の誰かの説教を聞いている姿を想像
しているようでした。

それにしてもアメリカでの説教は、こうしたらうまくいくとか、信
仰生活が祝福され、家庭も仕事もうまくいくというハウツーものが
多いのですが、また牧師はそれが保証できるかのように話をするの
ですが、ただ神の恵みをじっくりと味わうことは少ないのです。昨
日は、キリストによって支払われた代価の大きさを、ただそれだけ
を静かに語ってくださいました。そして、それだけで十分だという
確かさを伝えてくださった。そんな信仰が孫にまでしっかり伝わっ
ていること、何ともすごいことです。そこには、こちらが想像でき
ない困難や難しさがあってのことなのだろうと思います。

上沼昌雄記

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「だからこそ宗教が成立するー『1Q84』より」2009年 7月13日(月)

 

神学モノローグ

これは、6週間で200万部も売れたと言われている村上春樹の
新刊書『1Q84』のなかでの使われている一節である。発売日
の5月29日には最上川の隠れ家から、山形市内に用事の
あった友人の牧師ご夫妻にくっついて行って、市内の本屋さんに山
積みにされていたなかから2巻を購入した。週明けに24
時間かけて読了した。カリスマ集団のリーダーのことを取り扱って
いて、内容も深く、複雑なのでどのように理解したらよいか途方に
暮れた。ただ牧師は読んだ方が良いと思った。

日本での奉仕を終えて隠れ家に戻って荷造りをしながら、偶数の章
だけを読んだ。そしてアメリカに戻って時差ぼけのなかで奇数の章
を読んだ。二つの話が章ごとに展開しているのでこんなことができ
る。しかし2回目の読了といえるのかどうか分からない。1
回と4分の3ぐらい読んだ感じである。それでもこの本
について何かを書くのは気後れがしている。もう一度全部を読んだ
ら書けるとも思わない。ただ上記の言葉が使われている箇所と前後
関係は印象に残った。カリスマ集団のリーダーが、彼を殺しに来た
というか、殺すために招かれたというか、ともかく彼のところに来
た女性との緊迫した状況のなかで言っている箇所である。次のよう
である。

「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めていない。真
実というものはおおかたの場合、あなたが言っているように、強い
痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なん
ぞ求めていない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しで
も意味深く感じさせてくれるような、美しい心地良いお話しなの
だ。だからこそ宗教が成立する」(Book2 234頁)

この最後の一節だけを取り上げて村上春樹の宗教観を論じるのは性
急である。むしろカリスマ集団が成り立つというか、そのような宗
教を求めている人間の頼りなさを、そのリーダーの口を通して言わ
せているだけである。サリン事件の被害者のインタビューをまと
め、オウム真理教の裁判を傍聴し続けてきたなかで、そのような教
団が起こり、成り立ち、強大化していく生業を、そのリーダーで
あったらこう言うであろうと想像しながら書いたのであろう。

ただこのようなことは特定な集団だけに起こるのではない。私たち
に関して言えば、どの教会でも起こりうることである。牧師にカリ
スマ性が備わっているときにはその危険性はいつでもある。またそ
れに流されるというか、むしろそれを必要としているといえる、あ
るいはそれなしには生けられない人間のどうにもならない弱さを、
村上春樹はみている。私たちのなかにある満たされることのない欠
け、いやされることのない傷、どうにもならない悪、その追求が村
上春樹のどの本にも貫かれている。

強い痛みを伴う真実とは、そんな隠された私たちの反面・裏面に触
れることなので、自分ではどうすることもできない苦しみを引き起
こす。それが宗教の本質である。イスラエルの民が経験したことで
あり、キリストが人々に語りかけ、自らが示したことである。それ
は人間の罪深さに触れることである。律法でも、クリスチャンはこ
うあるべき、こうすべきという道徳主義でも取り扱うことのできな
いものである。心の深くに住み着く罪に触れることである。

「あなたが言っているように」と暗闇のなかでその女性に言う。何
とも象徴的なことである。この女性もある宗教団体に属している親
の元から抜け出してきた。リーダーはそのことも知っている上で
言っている。「壁と卵」、すなわち「システムと卵」と表現したエ
ルサレム賞受賞式の言葉は、すでに書き終えていたであろうこの言
い回しとも結びついてくる。システムとして築かれた団体や、そこ
での教義や神学に立ち向かうのは当然痛みを伴うものである。シス
テムはどうしても自己防衛に走るからである。それは個々の教会で
も、その教会の属しているグループでも、地域を越え、国を超えて
も起こりうることである。

そんな中から出てきたこの女性の背景も、自分のところに来た意図
も承知の上で「あなたが言っているように」と言って受け入れてい
る。受け入れることで自分の死も受け入れるのである。強い痛みを
伴う真実は、システムにあるのではなく、個人の深い心の中にある
ことを、村上春樹はカリスマ集団のリーダーを通して言わせてい
る。見事な手法である。

上沼昌雄記

「サドルバック教会で礼拝を」2009年7月13日(月)

ウイークリー瞑想 

シカゴの孫に会って、土曜日にLAに戻ってきました。妻の両
親のところは立て込んでいるので、叔母のところに泊めていただく
ことになりました。その叔母は私たちの住処の北カリフォルニアに
旅行中です。その家から『人生を導く5つの目的』のリック・
ウォレン牧師のサドルバック教会は近くなので、礼拝に行くことに
しました。

家の前の道をまっすぐに丘のほうに向かって10分ほど運転し
ていくと、小高い丘陵地に教会があります。その道に入る交差点に
「サドルバック教会通り」と標識が付いています。実際には橋を
渡ってそのまま教会の駐車場に入っていくだけの道です。すなわ
ち、公道の標識に教会名が付けられているのです。さすがと納得す
るのみです。

駐車場の案内人の指示に従って車を止めます。その手前で妻は降り
て木陰で待っています。雲一つない南カリフォルニアの太陽が降り
注いでいます。どこが入り口なのか分からないので人の列について
行くと礼拝堂の横から入ることになりました。集う人たちを観なが
ら、電光掲示板に表示される集会の案内を見ながら、両側の全面ガ
ラス窓から紺碧に晴れ渡った青空を仰ぎながら、目的主導の教会の
真ん中にいることを実感します。

年配の人もいますが、どちらかというと若いカップルから中年の
カップルまでが中心です。と言ってもすでに土曜日に2回、日曜に
は午後2回を入れて4回の礼拝をしていますので、そのつどの年齢
層は異なるのだろうと思います。昼前の礼拝ですのでカップルが多
いのでしょう。ただ場所柄なのか、今の不況の影響を感じさせない
穏やかさが漂っています。むしろある種の豊かさを感じさせます。
着ているものはカジュアルなもので決して贅沢ではないのですが、
袖を通したばかりで洗い立てで、これほど日曜の朝にふさわしいも
のはないという感じです。それぞれ良い仕事をして、それなりに大
きな家に住んでいて、生活が安定しているそんな雰囲気を醸し出し
ています。

時間になって鳴り出したバンドの音に妻は驚いていました。穏やか
な会衆の雰囲気に音楽がなじめないで、しばらくはちぐはぐな感じ
で進んでいました。その多少の違和感は礼拝そのものの難しさを示
しています。ぱっと見事に入っていくことができる礼拝も経験して
きたので、この面に関してはサドルバック教会でも難しさがあるこ
とが分かります。

5つの目的をバランスよく取っているのがこの教会の特徴です。そ
の中で自分ではできない分野を、それぞれの専門家を呼んでしてい
ただくことを心得ているのがリック・ウォレン牧師の優れたところ
です。そんなバランスの良さを感じさせてくれる礼拝です。7月の
主題、8月の主題と明確に示してくれます。自分たちが教会の主導
のプログラムのどの辺にいるのかが分かって安心をします。今月の
主題は「霊的成長」です。「その2」をテーマに従ってしていまし
た。聖書の引用も様々な訳を必要に応じて使っています。

中毒者、性的虐待、離婚、それからの回復のプログラム、家族の絆
のための父親と娘のダンス教室、ドラマ教室、ともかく目的主導と
その達成のためにとても具体的に追求していることが分かります。
教会は礼拝のためだからと言ってそれだけに固執することはしてい
ません。どんな問題を抱えていてもそのまま来て、そのまま教会に
いられる雰囲気を作っています。こうでなければクリスチャンでな
いという考えを持たなくても安心していられるところです。

キャンパスと呼ばれている広大な敷地を多少観たくて歩き回りまし
た。テントの下ではCDも本も売っています。新来会者のため
のテーブルも、祈りの必要の人のための助けもすべて屋外でなされ
ています。カフェも備え付けられています。礼拝を終えて子供たち
を預けておいた部屋から引き取る情景を見ます。その子供たちを楽
しませてくれる工夫が施されています。完璧に晴れ渡った南カリ
フォルニアのまぶしい太陽の下で、誰もが何かそれなりに満たされ
ているようです。むしろすべてがさらけ出されているようで、美し
くも見えます。

上沼昌雄記

「心の底で響いている音」2009年7月6日(月)

 

神学モノローグ

 6週間の日本での奉仕が許された。昨秋出した闇の本に基づ
いて、どれだけ闇について触れることができるか遠慮なしに試みる
ことにした。すでに本を読んでくださった方々もいるが、聖研やセ
ミナーでどのように取り扱うことができるのか、ともかく挑戦する
ことにした。最初は昨秋から取り入れている「表の私」と「裏の
私」ということから取りかかった。そしてその裏の私をさらに辿る
ために、心の深くでうめいたり、うごめいたり、叫んだりしている
心の響きを聴いてみる作業をすることになった。

闇は隠れていて、光には出されていないので、言葉で言い表すこと
ができない。言い表せたら闇でなく、光である。闇は心のどこか
で、底の深いところでドロドロしたもので、訳の分からないままで
不気味に漂っている。そんな自分でも捉えきれない、抗しきれない
力に突き動かされて罪を犯してしまった自分を、ダビデは振り返り
ながら詩篇139篇を歌っている。

5節から「表の私」と「裏の私」と言うことで自分を振り返ることが
できる。その前の4節で、その裏の私の心の底に響いている何
かを「ことばが私の舌にのぼる前に」と言い表している。そのこと
ばの手前の世界にどのように入ることができるのだろうかと思いな
がら、そのまま尋ねてみることにした。すなわち、それは言葉では
言い表せない、そうだとしたら、うめきや、叫びとして心で響いて
いる音で表したらどうなるか聞いてみた。

ひとりの青年がためらいもなく、ウォーと叫ばれた。心に押さえ込
まれていたものが、ふたが開けられて出てきたような叫びであっ
た。それだけで彼の心が解き放たれたようである。その叫びは今で
も耳に残っている。あるお嬢さんは正直に、聞きたくない金属音の
ようなものが鳴り響いていると言った。その場にはご両親もおられ
た。それだけでメッセージになったようである。

ある男性がそれしかないかのように、「止まらないモーターの音」
と言われた。説明はないのであるが、聞いているだけでこちらが疲
れてしまいそうである。またある中年の男性は、チャンネルが合っ
ていないテレビの「ジーィー、ジーィー」という連続音が鳴り響い
ていると言われた。聞きたくもない、観たくもない、それでいて消
すこともできない、しかも観なくてはならない、誰もが経験してい
て、それでも歓迎されない音である。どちらもそれ以上の説明を聞
くことはないが、こちらで想像してその心の情景を推し量ることが
できる。

ある年配のご婦人が「ため息だけが聞こえます」と言われた。でも
その時は安心しきった様子で言われた。この方とはこの3年ほ
どいくつかの会合でお会いしてきた。確かに最初の時にはため息し
か出てこなかった。しかし今度は、そのため息が色づいてきたとい
うか、メロディーが付いてきたというか、
ため息が多少の音
楽を奏でてきた。負っている重荷を知らされている。その重荷はな
くならないのであるが、その中で不思議に神に近づいていることが
響いてくる。

一泊の牧師の研修会で闇を辿る作業をした。夜には電灯を付けない
で暗闇の中で自分の影、闇を辿ることをした。その中のひとりの牧
師の教会に2週間後に伺うことになった。正直にその作業はき
つかったと、お好み焼きを食べながら言われた。今まではふたをす
ることでバランスがとれていたものが、ふたを開けることでそのバ
ランスが崩れてしまったと言われた。

闇を辿り、闇を見つめることはそのようなことなのだろうと思う。
そして心に響いている音を分かち合ってくれたが、それはバランス
が崩れたことで初めて出てきたようである。思いがけなく、また驚
きである。「ことばの手前の神学」という表現を闇の本で使った。
今は、その序論に取りかかっている。

上沼昌雄記

「自然と叫びとヨブと」2009年7月1日(水)

 

ウイークリー瞑想

昨日無事にカリフォルニアに戻ってきました。多少遅くなったラン
チを妻の両親と親戚の者たちと外で食べました。妻は、シカゴの長女に5
月末に2番目の子供が与えられ、孫に会いにすでに行っていま
す。私はこの土曜日、それはアメリカの独立記念日なのですが、シ
カゴに向かいます。北カリフォルニアの家に戻るのは半ばになりそ
うです。

カリフォルニアの太陽が何の妨げもなく降り注いでいます。まぶし
いばかりです。手入れが届いている芝生は、暑い太陽の下で水が注
がれ、しっかり刈られたら如何に美しいかを示しています。空には
少しの雲が浮かんでいますが、それ以上には透き通れないほどに澄
み切っています。

そんな誰も文句が言えないほどの青空を見上げていたら、成田を発
つ前日の夕方に、靄の中に幾重にも浮かんでいる山々を観たときの
情景が浮かんできました。山形市内での夜の集会に、最上川沿いの
隠れ家のご主人がドライブしてくれた車中から、遠くに連なってい
る山々が靄の中で幾重にも重なりながら、その重なるたびごとに夕
闇の中で濃紺が異なってくる幻想的な情景を、ことばなしに眺めて
いました。

ゆっくりと流れる最上川と水田に張られた水が、日中暑い中で蒸発
して靄になって、夕刻には遠くの山々を浮かび上がらせる帯となっ
て地に浮かんでいます。そして地の緑の敷物と、その上に夕闇に浮
かぶ山々の灰色がかった青の覆いは、なんと言えない幻想的な風景
を作り出しています。それに引き替え、何の妨げるもののない太陽
の下では、すべてがさらけ出されています。美しいものはより美し
く、見にくいものは目をそらしたくなるほどに、すべてがはっきり
しています。灰色かかったものはありません。

人文地理学的には、それぞれの地形や風土の違いがそれなりに心に
まで影響していると言えます。澄み切った太陽の下で生まれ育った
妻と、多少幻想的な灰色かかったところで生まれ育った夫が、私た
ち夫婦です。それでも灰色のないカリフォルニアで、人々は苦し
み、家庭が崩壊しています。灰色かかったと見える最上川沿いで、
心が澄み切って元気に生きている人々がいます。

太平洋を挟んで二つの異なった風景をしかも短時間に経験しなが
ら、やはり心にはあのヨブに最後に神が語られたことばが響いてき
ます。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」(38:4)地上
には労働があります。その実もあります。山の幸、海の幸を楽しむ
ことができます。同時に苦しみがあり、病があり、死があり、涙が
あります。それらすべてをご存じであって、しかもあたかも知らな
いかのように、神は語られるのです。

新緑の日本、森の中でなくカッコウの声、水の張られた水田、手付
かずの自然、北の大地に吹く風、さくらんぼの木の下、幻想的な山
並み、そんな景色を楽しみました。同時に心の叫び、うめきも聴き
ました。心のふたが開けられたようなウオーという叫び、聴きたく
ない金属音、止まることないモーターの音、ただため息、顔を斜め
に上げて叫ぶ遠声、心の底で誰もが何らかの叫び、うめきを響かせ
ています。

人には聞き取れない心の響きを、確かに神は聴いていてくださいま
す。それでいて、そんなことは知らないかのように神は嵐の中から
ヨブに語られます。人々の叫びとうめき、私の叫びとうめき、それ
らすべてを吸い取るかのような手付かずの自然を前にして届いてき
たヨブへの答えが、不思議に繰り返し届いてきます。

上沼昌雄記