「信じる力と信の哲学」2018年2月28日(水)

 この日曜日から思い立って村上春樹の『騎士団長殺し』を、三度目になりますが読み出しました。どうしてそのように思ったのかはうまく説明できないのですが、読み出してみて、想像以上に意味のある作品であり、作者もかなり気合いを入れて書いたのではないかと思わされました。上下巻を昨日火曜日の午後に読了しました。気になったので発行日を確認したら、ちょうど一年前の2月25日付けになっていました。この欄で一度「信じる力」と言うことで、昨年7月4日付で取り上げたことがあります。
 今回は、哲学的な用語であるイデアとメタファーがどのような意味合いで用いているのか知りたかったので、注意をしながら読みました。しかしこの『騎士団長殺し』出版後のある若手作家との対談で、そういう哲学的な意味合いのことを意識して書いたわけでないと述べているので、深入りする必要はないのだろうと分かりました。
 そして再度、この本のほとんど終わりに出てくる「信じる力」について考えさせられました。「なぜなら私には信じる力が備わっているからだ。どのような狭くて暗い場所に入れられても、そのような荒ぶる曠野に身を置かれても、どこかで私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ。」(下巻540頁)そして次の頁の終わりで「きみはそれを信じた方がいい」の一言でこの物語が終わるのです。(少し前の528頁でも「でも少なくとも何かを信じることができる」の一言が出ています。)
 主人公の「私」は閉所恐怖症なので、「どのような狭く暗い場所に入れられても」とでてくるのです。その上で「どこかで私を導いてくれるもの」を「信じる」のです。その信じる相手がイデアとしての「騎士団長」なのです。物語ではその騎士団長が限られた人とだけ会話をしますす。というより助け導くのです。そしてタイトルは何と「騎士団長殺し」なのです。そこに回復と癒やしがもたらされます。
 「騎士団」といえば十字軍を思い出します。その「団長」となれば私たちとしてはそれなりの意味合いが出てきます。作者がどこまで意図したのかは分からないのですが、「どこかで私を導いてくれるもの」を知り信じることで、この物語では夫婦が回復していくのです。
 そんなことを思っていた夜更けに、千葉先生より「刊行されました」というメールが入りました。日本時間で2月28日水曜日の午後に出版された『信の哲学』上下巻が先生の手元に届いたのです。返信よりも直接にと思って先生の研究室にスカイプの電話回線で刊行祝いをお伝えしました。
 1400頁の大著はまさに一言で表現すれば「信の哲学」です。誰にでもその心魂の根底に「信」があることを認め、その「信」を哲学しているのです。それがローマ書の提示しているところだからです。神のピスティス(真実)、イエス・キリストのピスティス(信実)、御霊の実としてのピスティス(誠実)、そして私たちのピスティス(信仰)と成り立っているからです。
 信じることには信じる相手を知る認知的な側面と、信じることで成り立つ人格的な側面の両面があります。分節しているようですが、信じる人の中では相補的に働いて、信頼関係が深まり、信仰が深まります。それをパウロ自身が理解し体験しているのがローマ書となります。
 信仰者にとって信じることは特別なことです。信じる相手の神の信と義によっているからです。同時にその信はすべての人に与えられているので福音宣教が可能性になります。そうなので、人のあり方を真摯に捉えようとする作家の小説にも、信じることが人間関係を変える力として出てくるのでしょう。
 上沼昌雄記

「内村鑑三とローマ書と」2018年2月22日(木)

 内村鑑三は1920年1月から1921年10月まで60回のローマ書講義をしています。『ロマ書の研究』としてまとめられています。(バルトの『ローマ書』は、第一版が1919年に第二版が1922年に出ています。)この講義に先立つ1914年にローマ書に関して、内村鑑三は次のような発言をしています。「旧約は新約を依て解すべし、新約は羅馬書を依て解すべし、羅馬書は其の第三章二十一節より三十一節を似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二十一節より三十一節までを解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず。」(『聖書の研究』172)
 すなわち、ローマ書3章21節から31節を解く人は聖書全体を解く鍵を神からいただいていると言うのです。内村鑑三自身が解くことができたのかというと、どうもできないで最後まで格闘していたようです。自分の葬儀ではこの箇所を読むことを願ったようです。千葉先生がこの「鍵」のことを、原稿の「あとがき」で触れています。
 千葉先生のご両親は内村鑑三の弟子の塚本虎二から聖書の指導を受けています。宮城の古川で家業の木材業を営みながら子供たちを聖書の訓戒で育てました。今回出版間近の『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の構想はそのご両親から「自然に与えられた宿題」と受け止めていると言います。その宿題が、まさにローマ書3章21-31節の鍵を解くことなのです。
 そのためと言えるのだと思いますが、千葉先生はアリストテレス研究から始めています。その上でローマ書の意味論的分析を通して、その「鍵」を解いていく作業を40年にわたってしてきました。「あとがき」で触れているのですが、内村鑑三の1914年の発言から一世紀経って千葉先生の鍵の解明が提出されたことになります。
 どのように提出されたのかは『信の哲学』の出版を待つ以外にないのですが、幸いに2013年に英文で”Uchimura Kanzo on Justification by Faith in His Study of Romans: A Semantic Analysis of Romans 3:19-31という記事が、”Living for Jesus and Japan” (Ed. Shibuya Hiroshi and Chiba Shin, Eerdmans: 2013)に載っています。日本語でないのが残念です。
 そこで内村鑑三自身のローマ書3章21-31節を紹介し、その上で千葉先生自身の3章19-31節の訳と解説を添えています。あえて19節から解説しているのは、19節と20節はそれまでの「神の前での罪人」のあり方をまとめているからです。そして21節から26節でその対比で「神の前の義人」を取り上げ、27節から31節をその神の前での罪人と義人のあり方に対する「ひとの前」でのあり方を語っていると分析しています。この分析はローマ書全体にも当てはまるもので、その意味で3章19-31節の訳と解説は千葉先生の全体の視点を見渡せる箇所です。
 そして内村鑑三が「鍵」と言い、おそらく内村鑑三自身も解けなかったのは22節の「イエス・キリストのピスティス」の意味合いでした。ルターはじめ伝統的に「イエス・キリスト信じる信仰」と取ってしまうと、この箇所でパウロがただ神の前での啓示と信仰義認と義人のあり方を語っているところに初めから人間の側の心的状態を当てはめてしまうことになり、神学的なアポリアに陥ってしまうのです。それで千葉先生は「イエス・キリストのピスティス」の「の」を、N.T.ライトのように主格の属格でもなく、ピスティス(信、信実)が初めからイエス・キリストに属している「帰属の属格」と捉えるのです。「鍵」の解明の第一段階と言えます。
 さらにこの「イエス・キリストのピスティス(信)」が、神の義の啓示の媒体になっていることから、神にとって「義」と「信」の分離はなく、23節から26節をその分離のないことの説明と捉えています。この神の信義に対する人間の対応として信仰と徳を捉えることで、パウロの心身論への展開の可能性を観ています。神における信義の分離のなさは、「鍵」の解明の第二段階と言えます。
 3章22節に関してのこの二つの解明は、ヒエロニムスのラテン語訳『ヴルガーダ』以来覆い隠されていた「鍵」を解くことになると千葉先生は観ています。それは当然2千年の西洋キリスト教へのチャレンジとなりますが、日本では内村鑑三が格闘したローマ書への一世紀経ってのチャレンジともなります。ここに至って、目が離せないテーマをいただいていることになります。
 上沼昌雄記

「捕囚の荷物」2018年2月19日(月)

 妻と読んでいるエゼキエル書の12章で、「捕囚の荷物」を造って、「捕らわれの身」として出て行く宣告が記されていました。この表現を観た途端に、その二日前に妻が用事で出かけている夕方に、ビデオで映画『シンドラーのリスト』で観た情景がありありと浮かんできました。
 家を追われて出て行くユダヤ人家族がスーツケースに大切なものを詰めている場面です。そしてゲットーに連れて行かれるのです。さらにそこから家畜用の貨物列車に乗せられてアウシュヴィッツに送られるときにはその荷物が取り上げられます。そして、ナチスの党員たちが荷物一つ一つを開けて、金目のもの、宝飾品、ユダヤ教の燭台であるメノーラーと仕分けしている場面です。
 ユダヤ人家族が淡々と荷物を造っている場面が、すでにエゼキエル書で記されていることに、この民の歴史性/現実性と超歴史性/超現実性を思わされました。ホロコーストのなかでこの人たちは自分たちの先祖が同じように「捕囚の荷物」を造って、「捕らわれの身」として出て行ったことを思い出しながら、それでも神の真実を信じて歩んでいる事実を噛みしめていたのかも知れません。自分たちが初めてではないことを知っていたのです。歴史の繰り返しなのですが、時間をも超えうる事実として受け止めていたのかも知れません。
 川越にいたときに南アフリカから来ていた日本人と結婚していたユダヤ人女性と知り合いになりました。ホロコーストを逃れて南アフリカに移住した家族です。子供さんの教育には金銭を惜しまないのですが、持ち物、特に家具などには一切お金をかけない生活をしていました。いつそこを離れなければならなくなるか体験的に知っているのだと分かりました。
 今住んでいるところは夏には山火事の心配があります。17年前に近くまで山火事が迫ってきたときに、何を車に積み込んで出て行くか直面したことを思い出します。それでも現実には身動きができないほどのものを身に纏っていることを認めないわけにいきません。それが豊かさにしるしであり、祝福のしるしであるとも思ってしまいます。
 ホロコーストの生き残りと言えるユダヤ人哲学者のレヴィナスが、西洋の故郷に帰る旅とユダヤ人の故郷を持たない旅を比較して、生き方と世界観の違いを語っています。その違いはまさに地上での旅人であるクリスチャンにも当てはまるのですが、しっかりと西洋的な故郷に帰り、そこを安全な住処とすることが神の祝福とすり替えてしまっています。
 人生の旅を誰もがしています。その旅で「捕囚の荷物」を造って担ぐことが神の民の生き様とすると、さてどうなるのだろうかと考えてしまいます。
 上沼昌雄記

「肉の弱さのゆえに」2018年2月15日(木)

『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約的か』(上下2巻)の出版の前に、いただいている原稿で下巻に当たる部分をもう一度読みました。上巻でアリストテレスとローマ書の関わりを詳細に展開した上で、下巻でアウグスティヌスのペラギウス論争、アンセルムスの神の存在証明と贖罪論、ルターの義認論とトマスとの相違、カントの理性批判、そしてハイデガーの現存在の本来性と非本来性の意味を、「信の哲学」とすり合わせ対話しています。

その対話の可能性をもたらしているのが、ローマ書6章19節「汝らの肉の弱さの故にわれ人間的なことを語る」(千葉訳)のパウロの提示と言えそうです。上巻でその意味合いが詳細に検討された上で、下巻ではパウロ以来の神学的アポリアを解く手がかりとして繰り返し出てきます。それでその意味合いを自分なりに咀嚼しておきたく格闘しているのですが、自分の言葉で表現できないでいます。それで覚書として取り上げているのです。

「肉の弱さ」と言えば、直感的に罪に汚れている自分の肉の弱さを認めざるを得ないので、否定しようのない事実として受け入れることができます。「肉の思い」に支配されている事実があるからです。さらに、病を抱え、死に対面している肉の弱さを知らされています。「肉」には、その意味で、神の創造による生物的な存在としての意味と、アダム以来の罪性を抱えた両面があると、体験的に認めることができます。歴史的にも、当然のように教えられてきたし、そのように説教もしてきました。取りも直さず、その罪性を抱えている肉からの解放を救いと理解したところがあります。

(千葉教授は、バルトもJ.ダンもブルトマンもキッテルの辞書も、肉の両面性を前提に書かれていると言います。おそらくN.T.ライトも同じ方向だと思います。札幌の小林牧師から紹介された松木治三郎は肉の一義性を取っているのですが、残念ながらそれ以上の展開はなされていません。おそらく私たちが接する聖書注解はすべて肉の両面性を前提に書かれていると思います。)

千葉教授の意味論的分析は、「肉」のこの両面性ではなく、生物的な意味での一義性だけを認めます。その上で、罪の遺伝的理解はローマ書5章12節の解明から成り立たないこと、さらに、ローマ書8章3節の「罪深い肉と同じような形」での受肉の意味を説き明かしています。この上で、ローマ書6章19節の「肉の弱さ」を神の前での啓示をそのままでは受け止めることのできない人間の限界として捉えています。さらにその前後で「罪の奴隷」にも「義の奴隷」にもなり得る人間の状態をパウロが譲歩して語っていると言います。それで「肉の弱さ」は信じる者にも信じない者にも当てはまることで、異教徒への伝道を目指しているパウロの視点を支えているとみています。

この意味での「肉の弱さ」を千葉教授はローマ書5-8章での「ひとの前での相対的自律性」として、その前の1-4章での神の啓示の「神の前での自己完結性」と分節して、さらにその総合がパウロによって試みられているとみています。この分節を取らないで初めから融合してしまっているために、神の主権と人間の自由意志の間での神学的アポリアに陥っているとみて、歴史的な挑戦をしているのです。そのためにこの「肉の弱さのゆえに」パウロが譲歩して語っている視点を繰り返し提示しているのです。

この「肉」はすでに「人間」と訳されているケースが多いのですが、区別されているとし、さらにその「肉」にピスティスが宿る部位を認めいます。同時に肉の弱さのゆえに、聖霊の助けなしには神の前の理解に達しないことを認めています。それゆえに「肉の思い」と「御霊の思い」は対比されています。「肉」の一義性を確認した上で、ローマ書7章と8章でパウロが心身論を丁寧に取り上げていると言います。不明瞭に終わりがちなこの箇所に確かな光をいただくことができます。

ともかく現時点では、肉の一義性から始めて、ローマ書理解に大変なチャレンジをいただいていると同時に、神学的アポリアをまさに「美しく問う」方向をいただいています。『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約的か』の刊行後、心して取りかかりたく思います。

上沼昌雄記

「アンセルムス的かつマザーテレサ的証明」2018年2月5日(月)

 この表現は、刊行間近な千葉恵教授の『信の哲学』(北大出版会)で、アンセルムスの神の存在証明に「かつマザーテレサ的証明」と付け加えることで、「信の哲学」の意味合いを明確にするために使われています。実際には、アンセルムスとカントの神の存在証明の議論のせめぎ合いをしている箇所で、注意して読んでいないとついて行けなくなるのですが、マザーテレサが出てくることで、緊張感がほぐれ、そういうことかと納得できるのです。言葉を紡ぐことで神の存在の発見的探求をしている千葉教授の息吹を感じます。
 上巻では、アリストテレスから始まって、ローマ書の意味論的分析を克明に展開して、ピスティス(信)とは、神のピスティス(真実)、イエス・キリストのピスティス(信実)、そして人のピスティス(信仰)であると提示しています。さらにその「信」が心魂の奥底で、認知的側面と人格的側面の両面を備えていて、相補的に機能しているとして、「信の哲学」の存在理由を語っています。
 下巻では、哲学と神学、理性と信仰の対話の可能性の歴史的事例として、初めにアンセルムスの神の存在論的論証をカントの議論との対比で紹介しています。その議論の中身を紹介できないのですが(できるほど消化もしていないのですが)、分かることは、カントは先の認知的側面と人格的側面を分離して別々に論じていることです。純粋理性批判と実践理性批判が分離している通りです。
 それに対してアンセルムスの神の存在論的論証は、全く言語次元でのことなのですが、背後に人格的信、神への信に対する信をもっていて、その言語次元のことが翻ってアンセルムスの信を生かしていると展開しています。それで「信を理解しようと思う者はそれを生きる覚悟が求められる」と千葉教授は言います。その生きる現場での信の理解の深さの証(マルチュリア)としてマザーテレサが出てくるのです。それで納得し、緊張も解けて、微笑みたくなります。千葉教授も笑みを浮かべながら書かれたのかなと想像もしてみました。
 これはまさに「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(1コリント13:2)と言われてことになります。それで千葉教授は、愛の営みが人間の間でなければ、神がどこに存在しようとも、この地には存在しないことになるとまで言います。「神の存在論証の一つの系譜は各人が自らの生をかけて愛の存在を証明することである。」
 このアンセルムスへの道筋をすでにパウロが定めているというのが「信の哲学」の核心とも言えます。意味論的分析によりローマ書は、「神の前の自己完結性」(1-4章)と「ひとの前の相対的自律性」(5-8章)が分節され、しかも総合されていると観ます。言い方を変えると認知的側面と人格的側面の分節と総合となります。この分析は類を見ないローマ書の現実感を与えてくれます。
 そして、ローマ書でこの分節と総合を可能にしているのが、5章5節です。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」すなわち、前半にはない御霊の初穂である愛が、後半での人格的側面を導き入れる手立てになっているからです。これに基づいて7章8章で展開されるパウロの心身論(霊肉論)は、今までにない明晰さと一貫性を備えています。
 「かつマザーテレサ的」と付け加えられたことで、多少難しいイメージの「信の哲学」を、身近に感じることができたのと、愛の存在証明を持って神を語る責任を、スムーズに受け入れることができました。宣教することも、説教することも、神学することも認知的卓越性と人格的卓越性の両面が伴うことでなされるからです。取りも直さず、『信の哲学』の著者自身がそのように生きているからです。
 上沼昌雄記