月別アーカイブ: 2018年2月
「内村鑑三とローマ書と」2018年2月22日(木)
「捕囚の荷物」2018年2月19日(月)
「肉の弱さのゆえに」2018年2月15日(木)
『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約的か』(上下2巻)の出版の前に、いただいている原稿で下巻に当たる部分をもう一度読みました。上巻でアリストテレスとローマ書の関わりを詳細に展開した上で、下巻でアウグスティヌスのペラギウス論争、アンセルムスの神の存在証明と贖罪論、ルターの義認論とトマスとの相違、カントの理性批判、そしてハイデガーの現存在の本来性と非本来性の意味を、「信の哲学」とすり合わせ対話しています。
その対話の可能性をもたらしているのが、ローマ書6章19節「汝らの肉の弱さの故にわれ人間的なことを語る」(千葉訳)のパウロの提示と言えそうです。上巻でその意味合いが詳細に検討された上で、下巻ではパウロ以来の神学的アポリアを解く手がかりとして繰り返し出てきます。それでその意味合いを自分なりに咀嚼しておきたく格闘しているのですが、自分の言葉で表現できないでいます。それで覚書として取り上げているのです。
「肉の弱さ」と言えば、直感的に罪に汚れている自分の肉の弱さを認めざるを得ないので、否定しようのない事実として受け入れることができます。「肉の思い」に支配されている事実があるからです。さらに、病を抱え、死に対面している肉の弱さを知らされています。「肉」には、その意味で、神の創造による生物的な存在としての意味と、アダム以来の罪性を抱えた両面があると、体験的に認めることができます。歴史的にも、当然のように教えられてきたし、そのように説教もしてきました。取りも直さず、その罪性を抱えている肉からの解放を救いと理解したところがあります。
(千葉教授は、バルトもJ.ダンもブルトマンもキッテルの辞書も、肉の両面性を前提に書かれていると言います。おそらくN.T.ライトも同じ方向だと思います。札幌の小林牧師から紹介された松木治三郎は肉の一義性を取っているのですが、残念ながらそれ以上の展開はなされていません。おそらく私たちが接する聖書注解はすべて肉の両面性を前提に書かれていると思います。)
千葉教授の意味論的分析は、「肉」のこの両面性ではなく、生物的な意味での一義性だけを認めます。その上で、罪の遺伝的理解はローマ書5章12節の解明から成り立たないこと、さらに、ローマ書8章3節の「罪深い肉と同じような形」での受肉の意味を説き明かしています。この上で、ローマ書6章19節の「肉の弱さ」を神の前での啓示をそのままでは受け止めることのできない人間の限界として捉えています。さらにその前後で「罪の奴隷」にも「義の奴隷」にもなり得る人間の状態をパウロが譲歩して語っていると言います。それで「肉の弱さ」は信じる者にも信じない者にも当てはまることで、異教徒への伝道を目指しているパウロの視点を支えているとみています。
この意味での「肉の弱さ」を千葉教授はローマ書5-8章での「ひとの前での相対的自律性」として、その前の1-4章での神の啓示の「神の前での自己完結性」と分節して、さらにその総合がパウロによって試みられているとみています。この分節を取らないで初めから融合してしまっているために、神の主権と人間の自由意志の間での神学的アポリアに陥っているとみて、歴史的な挑戦をしているのです。そのためにこの「肉の弱さのゆえに」パウロが譲歩して語っている視点を繰り返し提示しているのです。
この「肉」はすでに「人間」と訳されているケースが多いのですが、区別されているとし、さらにその「肉」にピスティスが宿る部位を認めいます。同時に肉の弱さのゆえに、聖霊の助けなしには神の前の理解に達しないことを認めています。それゆえに「肉の思い」と「御霊の思い」は対比されています。「肉」の一義性を確認した上で、ローマ書7章と8章でパウロが心身論を丁寧に取り上げていると言います。不明瞭に終わりがちなこの箇所に確かな光をいただくことができます。
ともかく現時点では、肉の一義性から始めて、ローマ書理解に大変なチャレンジをいただいていると同時に、神学的アポリアをまさに「美しく問う」方向をいただいています。『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約的か』の刊行後、心して取りかかりたく思います。
上沼昌雄記