「クリスマス、また?」2009年12月7日(月)

ウイークリー瞑想(改訂版)

「クリスマス、また?」2009年12月7日(月)

 昨年のクリスマスは、ダラス郊外の義樹の奥さんがシカゴ出身と
言うこともあって、シカゴの瞳家族に全員が集まって祝いの時を持
ちました。今年も同じパターンで家族全員が集うことにしていま
す。この一年間日本に3回伺いました。そんなこともあって
あっという間にクリスマスが繰り返してきた感じです。繰り返され
るクリスマスを経験しながら、これからも同じようにクリスマスは
繰り返されるのだろうと漠然と思っている自分に、ヘブル書を思い
出して多少の居心地の悪さを感じています。

 年ごとに大祭司は民の罪のために血を携えて聖所に入りました。
繰り返さなければなりませんでした。毎年ささげなければなりませ
ん。しかしヘブル書は、繰り返される必要のない「ただ一度」
(7:27,9:12,10:10)で完成されたひとり子であるキリストの
「永遠の贖い」をことのほかに大切にしています。繰り返す必要は
ないのです。それ以上に、繰り返してはいけないのです。

 当然クリスマスは同じ意味ではありません。だから繰り返しても
いいのだと言えそうです。しかし、それで良いのだろうかと思わさ
れています。居心地の悪さはこの辺にあります。繰り返されるの
は、キリストの贖いではなくて、キリストの誕生の祝いです。贖い
のために受肉されたキリストなのですが、その贖いの意味よりも、
誕生の祝いの意味が前面に出ているからです。しかし、それでクリ
スマスを終えていいのだろうかと思わされています。

 すでにいろいろなところで何度も繰り返してきましたが、初代教
会の信仰告白では、キリストの受肉が私たちの罪のためだと明記さ
れています。ところが私たちの信仰告白では、キリストの受肉は処
女降誕のしるしとしてのみ捉えられていて、救いの理解は十字架か
ら始まっています。それでキリストの受肉は贖いの意味とは切り離
されたのです。キリストの誕生が聖ニコラスと結びついてヨーロッ
パの精神に土着したのです。

 そこにさらにギリシャ哲学を根幹とするヘレニズム思想の循環の
歴史観が支配してきました。すなわち、繰り返しと反復です。聖書
の民を源泉とするヘブライズム思想の水平的な歴史観が置き換えら
れたのです。究極の約束の地を求めてひたすら歩み続ける旅人では
なくて、あるイデア的なものが繰り返して進んでいく安住の民に
なったのです。しかし、そんな安住の民を脅かす出来事が政治的な
面でも、経済的な面でも、精神的な面でも起こってきています。哲
学者たちは反復のなかに差異を見ています。

 クリスマスがただ一度で完成されたキリストの贖いのためである
と確認できたら、繰り返しではなくて、ただ一度でなされた神の救
いのわざの流れに置かれていることを真剣に思い見ることになるの
でしょう。すなわち、誕生日の祝いではなくて、罪のための、なお
自分の内の住み着いている罪のための御子の受肉の思いの深さを静
かに思い巡らすことになるのでしょう。随分違った意味合いのクリ
スマスになるのでしょう。

 そんなこと思いながらも、家族のクリスマスのプレゼントのこと
に思いがとらわれています。幸いに長女瞳の発案でシークレット・
サンタというやり方で、家族の一人だけにプレゼントを用意するだ
けでいいのです。それを楽しんでいる自分がいます。同時に、ただ
キリストの誕生で終わってしまうクリスマスでいいのだろうかと自
問しています。そんな両面が自分のなかにあります。

上沼昌雄記

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