「受肉と復活と、、、」2014年12月22日(月) – ウイークリー瞑想

 義父は一週間前に左腕の痛みを訴えました。触るだけで悲鳴を上 
げていました。確かに肘のあたりが膨れあがっていました。その日 
曜の午後に近くのクリニックにレントゲンを撮ってもらいに行きま 
した。骨折はなさそうでした。つり包帯をして帰ってきました。

 看護は俄然全面的になり、下の世話もすることになりました。義 
父のやせ細った体に直接に接します。幸いに痛みも取れてきて、左 
腕も多少使えるようになってきました。義父の体にはまだ自力で癒 
していく力はあります。驚異的なことです。

 受肉はまさに「肉・サルクス」を取ることでした、復活は「から 
だ・ソーマ」のよみがえりです。「肉」と「からだ・体」のことで 
す。まさに「肉体」の世界のことです。この肉体を神は御子イエス 
にあって取り扱っているのです。義父にとってその肉体をさらけ出 
すのは辛いことです。人としての威厳も吹っ飛んでしまいます。し 
かし義父はしっかりと受け止めています。

 受肉は、神が肉を持つ者の弱さをご存じであることを直接に示さ 
れたことです。と言うより、肉は神の創造物に一つであって、決し 
てあきらめていないことを神みずからが示されているのです。復活 
は肉を持つ体のよみがえりです。受肉が地下水のように繋がってい 
て復活に至るのです。

 その途上でイエスは十字架上で肉を裂き、血を流されました。受 
肉、十字架、復活は地下水脈で結びついている一連の出来事です。 
多くの場合に十字架だけが突出していたり、それぞれがばらばらに 
考えられたりしています。またクリスマスは御子の誕生の祝いで終 
わってしまいます。神の全体の救いの計画を見ることを難しくして 
います。

 神は天地の造り主です。そして新しい天と新しい地を約束してい 
ます。神は地を決してあきらめてはいません。地の回復を計画して 
います。肉体はその地の一部です。死者の復活、からだのよみがえ 
りは新天新地のさきがけです。受肉はそのさらにさきがけです。そ 
の始まりは天地万物の創造です。

 「みこころが天になるように、地にもなさせたまえ」と祈る私た 
ちは、地に関わることの取り扱いの責任をいただいています。神の 
かたちに造られている者の責任です。肉体に関する看護はその一部 
です。その負担は確実に重くなってきています。義父の介護に当 
たっている私たちもそれなりの歳です。三組のローティションを組 
んでお互いに負担にならないようにしています。

 義父の住んでいる界隈には楡の木の街路樹があって、その木々と 
家々が競い合うようにイルミネーションを施しています。数年来の 
行事のようになっていて、暗くなると多くの人が見物に来ます。義 
父の家も夕方5時から11時までタイマーを付けて加わっ 
ています。

 徐々に弱ってくる義父は介護を受けるために肉体をさらけ出さな 
ければなりません。私たちも待ったなしに直面します。それでこち 
らの肉体も疲れを覚えます。そのときに、夜空に輝いているクリス 
マス・イルミネーションを見上げ、その肉の現実を神が見つめてい 
てくださると思い、深い慰めと納得をいただいています。

上沼昌雄記

「孤絶」2014年12月15日(月) – ウイークリー瞑想

 11月3日(文化の日)はクラーク聖書研究会50 
周年記念集会でした。その前日に大阪の友人が、明日の朝の「毎日 
新聞」に村上春樹の単独インタビューが載ると教えてくれました。 
泊めていただいていた小林牧師と記念集会に行く途中コンビニで 
「毎日新聞」を購入しました。

 記念講演の前に講師紹介と言うことで、小林牧師が私のことを 
「福音の伝道師か、村上春樹の伝道師かどちらかわからない」とい 
う紹介をしてくれました。まだ記事を読んでいなかったのですが、 
「毎日新聞」の単独インタビューのことを話しましたら、終わって 
からすでに読みましたという人に会いました。北海道新聞の記者を 
している人でした。

 この後すぐに家に戻ってきて、義父の看病や、翻訳の最終原稿読 
みとかで、新聞記事をすぐには読めなかったのですが、一段落して 
2週間ほど前にようやく目を通すことができました。記事のタイトル 
は「『孤絶』超え 理想主義へ」となっていました。その「孤絶」 
のことで続いて考えているというか、どのような意味合いなのか思 
い巡らし、妻とも語り合っています。

 この4月に出た短編集『女のいない男たち』に関しての質問 
に村上春樹が答えています。「ここでは『孤絶』が一つのテーマに 
なっています。女の人に去られた男の話が中心ですが、具体的な女 
性というよりは『自分にとって必須なもの』が欠如し消滅し、孤絶 
感を抱え込むことの表象だと思っています。」「ある年齢以上にな 
ると、孤独は『孤絶』に近いものになる。そういう風景みたいなも 
のを書いてみたかった。」

 なるほどと思ってもう一度その短編集を読んでみました。自分に 
とって必須なものが欠如し消滅した孤絶の風景、それは、どんなに 
振り返り取り返したいと思ってもすでに手の届かない世界、それゆ 
えにバランスを欠き自分がどこに行くのか分からないで不安を抱え 
ている世界、外見をどのように繕ってもいずれはその空虚さが暴露 
する世界、垣根を失い他人が通過していくだけの世界、何がそこに 
入ってくるか何がそこから出てくるか分からないうつろな世界、そ 
れでもなお失ったものを求めている世界、と言えるのでしょうか。 
やはり闇の世界。

 義父は確実に弱ってきています。痛みもコントロールを超えて出 
てきます。痛みは他人が入ることのでない世界です。自分にとって 
必須であった自由を失います。病と痛みに釘付けされます。ホルモ 
ン治療をしているのですが、それがどのようなもので、どのような 
影響を及ぼしているのか想像できません。ただ孤絶感に閉じ込めら 
れます。

 現在は三人の娘が看病に当たっています。しかしある夜更けに、 
自分にとって一番身近なものが分かっていないと涙を流したことが 
あります。それは周りにいる私たちは分かっていることでしたが、 
やはり直接に父の口から出てきたことで、凍り付くような孤絶感が 
伝わってきました。妻はしかし、それは自分が病になったときにも 
自分の感じたことがと言われ、背筋が寒くなるような思いにさせら 
れました。

 ここに来て思わされるのはやはりヨブの孤絶感です。所有物も家 
族も失い、その上妻から呪いをかけられます。まさに「女のいない 
男たち」の代表格です。さらに慰めに来た三人の友からヨブは二重 
の苦しみを受けます。これがヨブの孤絶の風景と言えるとすると、 
どうしてもなぜヨブ記が聖書に置かれているのかと、どうしても拭 
えない思いが浮かんできます。

 それでもあえてヨブを孤絶の状態に置くことが神の導きだとする 
と、そうすることが神の民にとっても避けられない道行きであると 
も言えそうです。ある面で正しい人が理由なしに苦しみを受ける、 
それは御子イエスにおいても成されたことです。そして神は嵐のな 
かからヨブに答えられます。神は御子イエスを死者の中からよみが 
えらせます。

 「自分にとって必須なもの」を失うこと、それは外的なものだけ 
でなく、自分のなかで後生大事に抱え込んでいて、それなしでは 
やっていけないと思っていることを失うことでもあります。信仰者 
にとっては避けられないことです。孤絶感は私たち信仰者の「手前 
に」あるいは「その向こうに」ひっそりと潜んでいます。そしてそ 
の孤絶感の中でのみ神は答えられるかのようです。

上沼昌雄記

「ロスト・イン・トランスレーション」2014年12月 2日(火)

 今日は朝から雨。まさに恵みの雨。父も昨晩は充分に休めたよう 
で、妻のルイーズが用意したベーコンと卵焼きをおいしそうに食べ 
ていました。母と妹のジョアンも加わり、ルイーズも入れてどんよ 
りした雨の朝、雑談に花が咲いていました。

 私は隣の部屋でN.T.ライトの Simply Christian の 
翻訳の最終版を確認していました。どのようにも訳し切れそうもな 
い文章で格闘していたので、この際と思い、まさに英語で話をして 
いる食卓にそのまま持っていきました。以下の文章です。

 Lord’s Supper, Holy Communion, Eucharist, Mass; it  
almost sounds like a child’s rhyme (‘tinker, tailor,  
soldier, sailor’).

 前の四つの単語が、後の子どもがよく使う四つの単語のように、 
どこで韻を踏んでいるのか、私のロスト・イン・トランスレーショ 
ンでした。

 この家族は英語にはみな一見識持っています。父も母は分からな 
いとすぐに辞書を持ってきて確認します。母は日本語にも深い関心 
を持っていて、私によく聞いてきます。相手を間違っていますが。 
英語力に関してはルイーズもその流れを継いでいます。私たちの三 
人の子どもたちにも受け継がれています。ジョアンは英文学の専攻 
でした。ルイーズは日本語もほとんど解読しています。

 私の質問に関して食卓の四人がそれぞれ意見を出してくれて、そ 
れなりの方向をいただきました。後は編集者にまかせるだけです。 
そしてその続きのことが展開してきました。というのはこの本のタ 
イトルの Simply Christian の Simply をどのように 
訳すことができるのか、いまだに格闘しているからです。それで食 
卓の四人に 、Simply と言うことでどのようなことを 
思い浮かべるか聞いてみました。

 父は即座に、Only, Nothing But と言い、母は、Nothing  
Mixed, Nothing Added と言いました。ジョアンは、Pure,  
Shiny と言い、ルイーズは、Positive, Shiny と言いました。

 それぞれが持っているイメージの違いに驚いたのですが、そのイ 
メージはまたそれぞれのキリスト教理解を的確に表現しているよう 
で、何とも恐ろしい思いもしてきました。両親はよき福音主義の伝 
統の中でいまだにしっかりと根を下ろしていることが分かります。 
クリスチャンはこうあるべきだという思いが強くあります。それを 
はずれたことは考えられないのです。

 ルイーズとジョアンは、Shiny と言うことで意気投合して 
いました。ジョアンの Shiny は宝石のように輝いているとい 
うイメージで、ルイーズの Shiny は包み込むような輝きだと 
お互いに確認していました。それに対して私のイメージは、Basically  
だと伝えました。

 現在アメリカで目にする商品にこの言葉が使われてきていま 
す。Simply Granola は私の好きなシリアルです。この夏の私 
たちの近くの町のお祭りのテーマは、Simply Fun というもの 
でした。

それはそうと、Simply Christian をタイトルとしてどのよう 
に訳したらよいのか、ロスト・イン・トランスレーションから抜け 
出すもがきをしています。

上沼昌雄記