「若者たち」2007年12月28日(金)

ウイークリー瞑想 

昨日からJCFN主催のイクイッパー・カンファレンスに参加しています。サンディエゴ寄りのロス郊外でカルバリーチャペルの修養会場です。もともと温泉付きのリゾート地であったところを買い取ってカレッジと修養会場に使っていますので、立派な施設です。遠くはシンガポール、オーストラリアから、50名ほど日本から、アメリカ各地から、留学生を中心に350名ほど集っています。 

    8回目のカンファレンスですが、リピーターより初めての参加者が圧倒的に多く、年齢層も若くなっています。自分たちの子供より若い人たちが中心です。こちらは年々歳をとってきますので格差をより感じます。

    6日間のプログラムは、ボランティアの委員会が全部企画運営しています。理事なのですが一切関わっていません。およびもかかりません。牧師も関わっていません。若い人たちが全部仕切っています。全体集会、ワークショップ、早天祈祷会、賛美チーム、奉仕者、飛行場から会場までのバスの手配など、しっかりとまとめています。

    今回のテーマは「和解の努めーあなたに託されたものー第2コリント書5章18節」です。昨晩の最初の集会はそれにふさわしく、和解を成し遂げてくださったキリストへの招きでした。賛美も若者たちが責任を持って即興のバンドを組んで見事にリードしてくれました。うるさすぎることもなく、出しゃばることもなく、まだ旅の疲れが残っている参加者の心を静かに届いていきました。

    今朝の早天祈祷会もオプショナルなのですが、結構の人たちが参加していました。祈りに心をさいています。そして、スモールグループでの第2コリント書の学びの時を持って、全体集会に集っています。コリントの教会の背景を基にしたパウロの信仰の姿勢を学びました。なバンドのグループが賛美をリードしてくれました。メタリックの服装をした人も含めての力強い賛美と、それに応答する喜びの会衆の饗宴でした。

    まだ始まったばかりの修養会ですが、若い人たちが中心に心からの賛美をささげ、涙をもって祈り、互いの信仰を励まし、人生を真剣に考えている姿に接しています。決して安くない参加費、それに交通費もかかります。それぞれ工面して参加してくれています。何かを求めていることが分かります。何か大切なことをを人生で欠いていることを知っています。この世では満たされないことを知っています。そんな真摯さが伝わってきます。  

    先週の記事「新しい伝統」で紹介した若い人たちの初代教会への回帰、教会の神学や体制ががっちりしてきた分だけ、その構築では満たされないものを見誤ることなく捉えている若者たち、社会のひずみを言葉で表現できなくてもどこかで確実に感じている今の世代、傷つきやすさを笑いで覆っていても深く傷ついている若者たち、これからどのようになるのかは分からなくても真剣に求めている姿、そんな思いを感じさせる息吹のなかに置かされています。  

    この年の最後の歩みにふさわしいものと思いつつ、邪魔にならないように若者たちの中にいます。

 

上沼昌雄記

 

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「新しい伝統」2007年12月19日(水)

神学モノローグ 

昨日届いたU.S. News & World Report(12月24日号)がA Return to Traditionという特集をしているので早速読んだ。クリスマスに因んでのことかと思ったがそうではなかった。若い世代の人が新しい感覚を持ってキリスト教の伝統を再現しているというものであった。宗教欄の記事なのでユダヤ教のことも取り上げている。

12月の初めから、以前事務所の一角を使わしてくれた理事の方が、再度招いてくださって、新しい建物の事務所でインターネットの接続をすることができている。それで記事を基にして検索をしながら、さらにいくつかの情報を手に入れることができた。ちなみに、その記事を以下の所でみることができる。

http://www.usnews.com/articles/news/national/2007/12/13/a-return-to-tradition.html?s_cid=related-links:TOP

伝統として若い世代の人たちが立ち返っているのは礼典とニケア信条であるという。新しい感覚を持って取り入れているという。この記事には短いコラムがついていて具体的な例が紹介されている。そのコラム(Mixing Jesus With Java)を以下の所でみることができる。

http://www.usnews.com/articles/news/national/2007/12/13/mixing-jesus-with-java.html

イエスとジャヴァ・コーヒーが混ざっているというコラムのタイトルである。コーヒーショップで集会を開いている。静かに集い、告白と礼典を守り、信仰者の最も古い伝統に単純にあずかっているという。いまその交わりを指導しているのはトリニティー神学校の卒業生である。信仰告白は381年のニケア信条を基にしている。

興味のあることは、記事にも繰り返されているが、若い世代の人たちが最も古い伝統に立ち返っていることである。若い人たちは、いわゆる、ポストモダンの世代である。そのような人たちが心の拠り所を古い伝統に求めて、それをまさに今流に生かしていることである。コーヒーショップで厳粛に礼拝を守るのである。

来週クリスマスの後にJCFNのイクイッパー・カンファレンスがロス郊外のカルバリー・チャペルの修養会場で開かれる。そのための断食の祈りをしている。留学生が中心なので多額の奨学金のキャンペーンをしている。厳粛に神を礼拝し、躍り上がるように感謝を体中で表現し、それでいて真実から外れているように思うことに恐れないで対面していく。その働きを生かし、若い人たちが生きていくことを理事として工面している。

理詰めで、体系づけられ、身動きができない社会で、そこには教会も含まれることもあるが、息のつける、新しい風を感じさせる礼拝を若い人たちが真剣に求めている。そんな脱構築を、ひと世代古いものは恐れている。しかし時代は動いている。新しい時代がはるか昔の伝統を生かしている。

エマオの途上で、弟子たちが語り合い論じ合い、そこにイエスが聖書から解き明かされた。そして夕刻になり、弟子たちはイエスを強いて家に招きいれた。その食卓で「イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの眼が開かれ、イエスだと分かった。」(ルカ24:30、31)そんな状景を再現するようなことが、いま起こっている。

 

上沼昌雄記

「肉のからだ・霊のからだ」2007年12月17日(月)

神学モノローグ

    御子が肉をとられた、肉になられた、すなわち、キリストの受肉、それがクリスマスの事実である。肉を持つすべてのもの、人間も被造物も、造られたものすべてのものへの神の配慮である。天にあるものも、地にあるものも、肉を持つすべてのもの、万物の救いのためである。

肉を持っていることを少なくとも自覚しているのは、私たち人間である。肉を持ってすでに生きている。その事実に避けることができないように直面している。自分で選び取ったわけでない。この身体、この顔を持って生きている。もし選択の余地があるとしたら、決められないで時は永久に無為に経ってしまう。そんな詭弁は許されない。すでに肉を持って生きている。自分の肉を、善し悪し関係なしに受け止めなければならない。おぞましい事実である。自分の肉が自分にとっての重荷である。

パウロはこの事実を、肉(サルクス)とからだ(ソーマ)を結びつけて「肉のからだ」(1コリント15:44直訳)という。受肉と言い表す時は、間違うことなくそれは「肉」(サルクス)である。教会のことを「キリストのからだ」と言い表す時は、間違うことなく「からだ」(ソーマ)である。そのサルクスとソーマが結びつけられて、いま肉を持って生きているこの私の事実を「肉のからだ」という。

いまクリスマスは、この「肉のからだ」の事実をしっかりと受け止めることを勧める。肉のからだを持ってしっかり生きる責任を教える。それは、肉のからだの向こうに、はるか彼方に「霊のからだ」(1コリント15:44脚注)をみているからである。おぞましい肉のからだを脱ぎ捨てて、うるわしい霊のからだに預かることを望みみているからである。切なる望みとして渇望しているからである。その望みで生きているからである。キリストの復活による霊のからだである。霊肉二元論ではない。からだ一元論である。

パウロは第2コリント書5章の初めで「地上の幕屋」と「天からの住まい」という別の言い方でこの渇望を表現している。「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。」(2節)「肉のからだ」をもっているために避けられないうめきを聞き取っている。それはロマ書8章3節で受肉の事実と意味を語った後に、被造物のうめき、自分の心のうめき、御霊のうめきと続けて語っていることに連動している。パウロのうめきの連続音である。

うめきは、肉のからだの奥深くから湧き出てくる。肉の背後のさらにその裏からかすかなうめきが響いている。悲しい響きであり、どこに行くことのできない絶えることのない振動である。自分だけが聞き取るかすかなうめきである。夜に床で静まっている時に自分の心が聞き取る歌である。何かを失い、何かを損ない、何かで傷つき、何かを慕い求めている心の渇望である。決して満たされないうめきである。

肉のからだで生きることのおぞましさは、このうめきを聞くことである。アダム以来失い、損なったものを聞き届けなければならないおぞましさである。うめきがいまも肉のからだのどこかで絶えず響いている。避けられないことである。聞きたくないのに聞かなければならない。それはおぞましいことである。肉の欲求であり、肉の欲であり、肉の弱さであり、肉の痛みであり、肉の病であり、肉の死である。そんな肉を持って生きなければならない存在のおぞましさである。死の恐怖と存在のおぞましさである。

いまこの死の恐怖と存在のおぞましさのなかでうめきながら、「霊のからだ」、「天からの住まい」を着ることを渇望している。それは、肉のからだにある限り着ることのできない。肉のからだの彼方で着たいと切に願っているものである。いまだ味わったこともないからだである。ただはるかに望みいていることである。

ダビデは詩篇26篇4節で詠っている。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」ダビデも肉を持つものとしてのうめきを聞いていた。どうにもならない肉の思いに引き裂かれたダビデのうめきである。うめきを聞きながら、はるか彼方にある麗しさを慕い求めている。

キリストの受肉としてのクリスマスは、はるか先に、はるか彼方にある救いの成就を的としている。肉を持つすべてのうめきを聞き届けるために、キリストも同じ肉をとられた。肉にあって罪を処罰し、肉を持つものを「霊のからだ」として「天の住まい」に招くためである。クリスマスの祝いは、この救いの始まりの喜びである。はるか先を、はるか彼方を的にしながら、御子は肉となって私たちの間に来て、住んでくださった。私たちもいまはるか先を、はるか彼方を的として望み見ている。渇望している。信仰の初めである。クリスマスである。

 

上沼昌雄記

「キリスト教の身体性」2007年12月11日(火)

神学モノローグ

    神の御子が肉をとられたこと、それがクリスマスのメッセージである。そうすると、肉をとらなければならなかった必然性を考えることになる。天使であったらば私たちの救いは成り立たない。ヘブル書の著者が言っている。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いを助けるためではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださったのです。」(2:14−16)

肉を持つものすべての救いのために、主は私たちと同じ肉をとられた。ヨハネ福音書では、主は肉(サルクス)となられたとストレートにいう。「ことばは人(サルクス)となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)ニケア信条は肉をとり、肉となられたと、誤りのないように繰り返している。「主は、私たち人間のため、また私たちの救いのために降り、肉をとり、人となられた。

肉を持つものの苦悩、限界、恐怖が浮かび上がってくる。パウロがロマ書8章3節で言っていることである。「肉によって無力になっているために、律法ではできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

肉は思いとは反する。したくないと思っても肉は独りでに動いてしまう。勝手に動き出してしまう。押さえていてもどこかで肉がその出口を求めてうごめいている。取り繕っている自分を裏切るかのようにほくそ笑んである。そして現実にあざけるように勝手に動き出してしまう。

肉の維持のために食べなければならない。そのためには他者を押しのけてしまうこともある。戦争も避けられない。肉が持つ性の欲求がある。理性が吹っ飛んでしまうようなことがある。

肉は時間と空間に縛られている。抜け出すことはできない。その束縛のなかにいるのと同時に、その終わりがある。病と死の恐怖を抱えている。時間と空間の向こうに行くことができない。

キリストが肉をとられた時に、肉を持つものの弱さと限界を身に受けられた。そこをヘブル書の著者がみている。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができたのです。」(5:2)この同情がまさに救いの始まりである。肉を持つものための救いの計画である。それゆえに、肉における処罰があり、復活のからだを持ってよみがえることで、救いが成就する。受肉、十字架、復活、昇天という一連のキリストのわざが救いのためであることが分かる。

救いを受肉からではなくて、十字架から捉えていく理解では、贖罪の意味が前面的に強調される。結果として義認論が中心になる。その場合に受肉論が隠れてしまうために、肉の現実性よりも、義とされたという法的な宣言が意味づけられる。そのために、命題としての救いの教理が体系づけられ、結論として、救われたもののあり方が教条として出てくる。すなわち、クリスチャンはこうあるべきだという教条になる。理想的なクリスチャン像である。しかし、肉の現実を忘れた仮想の世界にもなる。救済論が観念的な事柄となる。

このようにキリスト教が、肉の現実から離れた、教えと倫理のこととなる。精神性のキリスト教になる。聖書を理解し、その教えを心に刻めばことはうまく進むような説教になる。そしてそうでない現実に直面しておじ惑う。教会において、神学校において教えの通りに行かないことに直面して驚く。

肉の現実を受け止めている時に、そのようなことにおじ惑うことも、驚くこともない。しっかりと受け止めることができる。そのためにキリストは肉をとられたのである。キリスト教の身体性である。馴染みのない表現であるが、キリスト教が余りにも精神主義になっているのであえてこの表現を使っている。

肉(サルクス)は肉体であり、身体(ソーマ)である。私の肉であり、ひとりひとりの肉である。精神性には還元できない個別的な身体である。私が抱えている肉であり、ひとりひとりが抱えている肉である。理想的なクリスチャン像では捉えきれないはみ出したものである。異質であり、意外性である。

肉は感性を抱えている。私が感じるものであり、その人が感じるものである。当然それぞれ違っている。精神性のキリスト教では同じように感じることを要求する。身体性のキリスト教は固有性と多様性を受け入れる。

肉は闇を抱えている。身に起こったことが肉の襞に刻まれているかのように記憶として残っている。パウロは「肉の心」(2コリント3:3脚注)という。肉の襞と心の襞が表裏一体のように重なっている。その重なり合った襞に闇がひっそりと隠れている。肉体が悪臭を放つかのように闇が出てくる。

自分の肉の罪深さのゆえに、肉をとられたキリストが受けなければならなかった苦しみと試練の大きさが多少とも分かる。そして、同じように肉を持つ他の人の苦悩に少なくとも同調することができる。

 

上沼昌雄記

「受肉・再考」2007年12月4日(火)

神学モノローグ

クリスマスのシーズになると、どうしてもキリストの受肉の意味を考える。というのは、キリストが肉をとったことが救いであり、救いの始まりであるからである。単なるキリストの誕生の喜びではないと思うからである。肉をとらなければならなかったキリストの悲痛な叫びであり、そのように御子を遣わさなければならなかった父なる神の痛みである。誕生の喜びより、受肉の重さへの同調である。

クリスマスを何度か迎えている時に、確かに救い主の誕生であるので、喜びがあり、祝いがあるが、しかしある時から、クリスマスが単に救い主の誕生のお祝いで終わっていることに多少の疑問も持つようになった。クリスマスのメッセージで救いを語り出すと十字架にすぐに結びつけてしまって、救いが受肉と結びついていないことに不思議に思うようになった。

クリスマスが十字架のための備えだけであって、救いのためであると理解されていない教会の歴史、神学の歴史に気づいた。そのような神学的な理解が、自分も学び、教えたことのなる神学校の信仰基準で語られていることが分かった。「われらの主イエス・キリストは、真の神にして真の人であられる。主は聖霊によってみごもった処女マリアより生まれ、世の罪のために十字架の上で死に、三日目によみがえられた。主は天に昇り、神の右に座し、われらのために大祭司の務めをなしておられる。」

処女降誕を強調しているのが分かる。そして「世の罪のために」というのは十字架から結びつけられている。プロテスタントの福音派の教会、神学校は同じような理解を取っている。当たり前のように思ってきたのであるが、どうも教会の歴史のなかでは全く違った視点を持っているようである。すなわち、受肉と救済がしっかりと結びつけられている。325年のニケア信条をみるとよく分かる。

「主は、神の子であり、父から生まれたひとり子である。すなわち、父の本質から生まれたお方であり、神からの神、光からの光、真の神からの真の神であり、造られたものではなく、父と本質を一つにしているお方である。すべてものは、天にあるものも地になるものも、この方によってできた。主は、私たち人間のため、また私たちの救いのために降り、肉をとり、人となられた。そして、苦しみを受け、三日目によみがえり、天に昇られた。」

以上から分かることは、救済を受肉から始まるとみるか、十字架から始まるとみるかの違いである。結構大きな違いである。聖書全体の捉え方の違いをもたらしている。教会史を遡りながらその違いを確認する以外にない。大変な作業である。避けることはできない。ここではいくつかの点だけをみておく。

第一に、パウロがロマ書8章3節で言っていることを確認しておきたい。「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」ここでは「罪のために」というのが受肉と結びつけられている。少なくとも受肉と救済とをしっかりと結びつけているのが聖書の視点であることが分かる。プロテスタントでは義認論の強調とともに受肉論が救済論から落ちてしまっている。それが聖書の教えであると思い込んでいる。その視点で聖書を読む枠組みから抜け出せないでいる。

次に、受肉論と救済論とがしっかり結びつくことで、受肉、十字架、復活、昇天が救済論の全体として捉えられてくる。すなわち救いの意味は、受肉から始まって復活と昇天を持って終わるという意味合いが出てくる。十字架による義認論だけが過度に強調されることはない。聖書の理解の視点、そこから出てくるキリスト者の生き方の違いを生み出してくる。

そして取りも直さず、受肉の現実、まさに肉をとらなければ救いが成り立たない神の救いの意味が前面に出てくる。肉を持つものの罪の深さの理解と、肉を持つものの弱さへ同調である。肉を持つものすべてへの同情である。パウロがロマ書8章3節で述べている受肉の理解の深さと、その前後で語っている、自分の罪の理解の深さと、なお達し得ないで苦しんでいる自分の心の中のうめきの深さと、さらに被造物のうめきの深さが結びついてくる。

降誕節を否定しているのではない。また自分たちの立っている信仰基準を否定しているのでもない。違った視点で見ることで聖書の理解を深めたいのです。少なくとも、このクリスマスが単なるお祝いで終わってしまうのではなく、肉に対する理解を深め、肉を持つものへの同調と同情を深めたいのである。

 

上沼昌雄記