「書籍『ナチからの脱出』を読む」2008年2月27日(水)

神学モノローグ 

用事があって長男義樹のところに来ている。泊めていただいている部屋でiBookの接続ができる。いつも使っているテーブルの上に、ブライアン・リッグ著『ナチからの脱出』(滝川義人訳、並木書房)という本が、著者のサイン入りで置いてあった。著者はテキサスのダラスに住んでいる。義樹が用事でダラスに行ったときに私にと言って渡してくれたというのである。「ドイツ軍将校に救出されたユダヤ人」という興味をそそる副題が付いている。

この数年ナチスの生き残りのユダヤ人哲学者のエマニュエル・レヴィナスの本を読んでいる。ナチスとユダヤ人大量虐殺の関係、とりわけ、そのなかでのヨーロッパのキリスト教の無力さについてレヴィナスが哲学の課題として取り上げていることに、少なからず神学を志す者として、根本的なチャレンジが突きつけられている。なぜキリスト教はナチスを阻止できなかったのだろうか。その意味もあって大変興味深く読んだ。

著者リッグ氏は、イエール大学、ケンブリッジ大学で歴史学を専攻し、哲学博士号を取得している。その上で海兵隊の将校として勤務をする。その折りに義樹と一緒になり、信仰のこと、政治のことを結構話し合ったという。リッグ氏はイスラエル軍にも勤務したことがある。

リッグ氏はテキサスのキリスト教保守派のなかで育った。歴史を学んでいくなかで、自分の先祖にユダヤ人の血が流れていることを知る。ナチスの軍隊のなかにユダヤ人の血を受け継いだ将校や兵士がいることを知ることになる。ドイツ語を駆使して、生き残りのユダヤ人将校と兵士を探り当ててインタビューをしていった。自転車やヒッチハイクをしながらドイツ国内をくまなく歩き回ったという。語られることもなく、語る場もなく、心の底にひっそりと留まっていたものを掘り起こしたのである。『ヒトラーのユダヤ系兵士』という本でまとめ上げた。

そのなかでもうひとつの事実を知ることになる。ヒトラーが1939年にポーランドを攻め、ワルシャワを包囲したときに、その中に数十万のユダヤ人が取り残されていた。正統派ユダヤ教の指導者ラビも残された。アメリカ政府の高官とドイツ軍諜報機関の協力で、ユダヤ人の血の混じるナチの将校を中心に救出に乗り出す。そんな不可能と思われる救出作戦を、歴史家としての精密さを持って再現している。『ナチからの脱出』である。推理小説を読むようであり、同時に隠された歴史を紐解くようである。このような事実があったことを初めて知る。

戦争の暗部に入っていき、政治の巧緻を示し、宗教の極限を露呈している。ルーズベルト大統領が、この時点で救出に積極的あったらば、何万というユダヤ人を救い出せただろうと言う。また、アメリカに救出されたラビが、ホロコーストはメシア待望を促すための神の摂理という理解に不快感を示している。キリスト教会がナチスの反ユダヤ主義に荷担していたことを指摘している。いくつかの視点を含むユダヤ人の物語であり、歴史書である。その時の膨大な資料は現在、ドイツの連邦・軍公文書館にリッグ・コレクションとして保管されている。

ヒトラーのポーランド侵攻から2年してソ連への侵攻が始まる。すぐにリトアニアのユダヤ人大量虐殺が起こる。リトアニア出身のレヴィナスはフランスに帰化し、すでにフランス軍兵士としてドイツ軍の捕虜になっていた。リトアニアの彼の家族と親族はほとんど殺されてしまった。レヴィナスは戦争が終わってから知ることになる。戦後タルムードの教師として哲学をする。なぜヨーロッパの哲学はナチスの全体性を容認することになったのかと問う。哲学自体が概念化と論理化による体系化、すなわち全体性を求めてきたためだという。1961年の『全体性と無限』でその見解を世に問うた。神学も同じ思考方法を持っているために、ナチスの全体主義に抵抗できなかったという。以降、彼の哲学は徐々に確実に受け入れられてきている。

ナチスの全体主義とユダヤ人大量虐殺、その背後にある哲学的、神学的視点、それがもたらしている思想の転回、すでに60年以上たち、新しい世紀を迎えていても、拭いきれない呪いのように付きまとっている。それでもレヴィナスのように、リッグ氏のようにその事実を隠さないで観ようとしている人がいる。それでしか過去から解放されない。

どのような導きか、私は終戦の5ヶ月前に生まれた。そしていまだに、日本での戦争のこと、戦争責任のこと、教会の姿勢のこと、解き明かされなければならない暗部が余りにも多く、余りにも深くあることに驚く。戦争の闇はいまだに日本を覆っている。教会にまで影響している。そんなことはないかのように繕えば繕うほど、闇が深くなる。

義樹家族は、新しい仕事のためにこの夏にはダラスに移る予定である。いつかダラスに訪ねて、リッグ氏にこのような本を書いた動機、書いたことの個人的なインパクトを聞いてみたいと思う。

 

上沼昌雄記

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「出て来た故郷」2008年2月25日(月)

ウイークリー瞑想

誰もが自分の「出て来た故郷」を持っています。特に日本を離れて生活している人には「出て来た故郷」は、心の片隅にいつもひっそりと、ふくろうのように留まっています。異国の景色を観るにつれ「出て来た故郷」を思い出します。山を見て、生まれ育った地で見てきた赤城山を思い出します。

15年ほど前に2年間奉仕させていただいたいサンフランシスコ郊外の教会の姉妹が、7年間の闘病の後天に召されました。この方の生前の意思で私に葬儀のときにメッセージをと言うことで、過ぎる土曜日にメモリアルサービスに伺いました。1年半前のミニストリーの15周年記念会に来てくださいました。お会いしたのはその時が最後です。美しい笑みをたたえたその時の写真をコピーして、額に入れご遺族に渡しました。

さて、私を呼びだして何を言わせたいのだろうかと考えました。この方の信仰は「突き抜けた信仰、突き抜けていて節操を持った信仰、突き抜けていて慎みと品性をともなった信仰」です。突き抜けてどうにもならない信仰もあります。この方は一歩突き抜けていて、しかも同時に一歩脇に退いているのです。節操を持っていました。慎みと品性をともなっていました。お花を用意された方が竹を使われました。竹のような信仰でしたからと言われました。

個人略歴で、この方が1960年に二十歳過ぎたときに留学でオークランドに来て、その後信仰を持ち、ご主人と知り合い、結婚をされたことを知りました。二十歳過ぎの乙女が60年代の初めに日本を後にして太平洋を渡って異国の地に来たのです。1ドルがまだ360円の時代でした。ビートルズが出てくる前のときでした。東京オリンピックの前でした。

メモリアルサービスを終わって、メッセージのなかで読んだヘブル書11章13−16節の、信仰の旅人と言われている箇所と、この方の人生がより鮮明にダブってきました。この方の人生を思いながら、自分が読んだその箇所が生きてきました。「地上では旅人であり寄留者である」こと、そして「自分の故郷を求めていること」とと、「さらにすぐれた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれている」こととの間で、「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう」と言われています。

「出て来た故郷」は、記憶の詰まった地です。この姉妹は留学できて、そのまま住みついて家族を持ち、48年経ちそのまま召されました。何度故郷に帰られたか知りません。私は幸いなことにミニストリーで日本に行くたびに故郷・前橋に立ち寄ることができます。

「もし出て来た故郷のことを思ったのであれば、帰る機会はあったでしょう」と何とも心憎いことを言います。異国の地で生活の基盤を持ってしまうと、現実的には帰ることができません。それでもそのように思えば「帰る機会」はあります。可能性としていつもあります。しかし、いまその可能性をも否定します。「よりすぐれた故郷」にあこがれているからです。その「天の故郷」が帰るべき「自分の故郷」と見ることができるからです。この姉妹はそのように自分を突き破って出ていくことができました。突き抜けて竹のような信仰を持っていました。物理的に自分を抜け出すことででき、精神的にも自分を抜け出していたのです。

物理的、地理的に自分の生まれ育った地を出ていても、精神的、心理的には「出て来た故郷」から出られないでいることがあります。それは古い自分であり、生まれたままの性格であり、自分の考え方であり、自分のやり方です。異国の地で生活するための苦労が依怙地にしてしまうところもあります。自分を守らなければやっていけないそんな格闘が自分の殻を固くしてしまいます。異国の地で生活するものが誰もが経験することです。

この姉妹も苦労されたと思います。それでもそんな自分を抜け出ることができました。最後まで不平も言わないで笑みをたたえていたと、ご主人が言われました。姉妹に「どうしてそのように抜け出ることができるのですか」と聞いてみたい思います。どうして「よりすぐれた故郷」を「自分の故郷」として捉えることができたのか聞いてみたいです。

そのように思っているうちに、同じように突き抜けて生きるようにと私に伝えたかったのだと気づきました。「出て来た故郷」ではなく、「天の故郷」を「自分の故郷」とするように伝えたかったのです。そのために私を呼びだしたのです。

上沼昌雄記

「その耳は遠く」2008年2月18日(月)

ウイークリー瞑想 

過ぎる土曜日の昼に、秋田大学医学部の耳鼻科教授の石川医師と、カリフォルニア大学デービス校医学部耳鼻科のブローディ教授と私たち夫婦と、みくにレストランで、レストランの創業者の荒井牧師を交えて、またご好意をいただいて会食のときを持ちました。石川医師の紹介でブローディ教授を通してルイーズのために専門医を紹介していただいたという経緯があります。

耳鼻科というと耳を見たり、鼻の穴を見たり、喉を見たりというイメージしかないのですが、医学部の耳鼻科でしていることは、首の上からの喉と顔に掛かるすべての手術をするということです。石川さんがいくつかのスライドを見せてくれましたが、脳と顔面近くを切り開いていく大変な手術です。

    石川さんは前日にブローディ教授のされた手術に立ち会われたということで、ルイーズが興味を持ってどのようなものなのか尋ねました。耳のうしろから切り開いて人工内耳を植え付けて、聴力を回復するものと言うことでした。実際には以前とは同じようには響いて来ないということですが、ともかく患者さんはもう一度聞くことができるようになって大変感謝をしていると言うことでした。

    その話の続きで、聴力を失うことが人を非常な孤独の世界に陥れることになると言われました。特にそれまでは聞こえていたのですが、突然聞こえなくなると絶望の淵に滑り落ちるように、外界とは切り離されてしまうと言うことです。視力を失うのとは違った孤独感を経験するというのです。精神的な閉塞感が襲って来るというのです。見えていてもコミュニケイトできない心理的なダメージを受けるというのです。

    ただ感心して聞いていたのですが、霊的な世界にも当てはまるような気がしてきました。拙書『夫たちよ。妻の話を聞こう』を書いて以来、聞くことの霊的な意味を考えるています。「聞くことと聴くこと」いう項目も書きました。物理的というか、身体的というかともかく聞いていても、心理的、霊的には聴いていないのです。聞いていても聴いていないのです。聞けても聴けないのです。

    ともかく妻の話を聞くことは大変なことです。そのような本を書いたからといって大丈夫ではないのです。いつも苦しんでいます。石川さんご夫妻は大変ユニークなコミュニケーションをされます。そのことをルイーズに話していたので、会食後車のなかで、私たちの家でお茶を飲みながら、ご主人の立場からの意見を伺うことができました。どこかで完全に信頼しあっていることが分かります。繕っていないのです。破れているのです。

    妻の話を聞くことは、どこかで子供の心を聴くことになり、それは神の声を聴くことに通じているのだろうと思わされています。それでまさに、神の声を聴く聴力を失っていて、霊的に閉塞感に陥り、心理的に孤独のなかに落ち込んでしまっていることがあるように思えてきました。神の声が聞こえないので、自分の世界で空回りをしているのです。事故で聴力を失ってしまった男性が、その脇で奥様が何を話しても通じないでいると夫婦の断絶を経験すると言われました。神様が語っていても聞こえなくなって、断絶を経験するのです。一度は確かに聞こえたので信仰を持ったのですが、どこかで聞こえなくなってしまうのです。知らないで自分だけの世界に入り込んでしまいます。独りよがりになり、空回りをしてしまいます。恐ろしいことですが起こります。霊的聴力喪失です。

    イエスの種蒔きのたとえがあります。弟子たちがその意味を尋ねています。たとえは分かりやすくするために用いられます。それなのに、なおその意味を尋ねるというのは何とも不可思議なことです。それでもイエスはその意味を説明します。その折りにイエスがイザヤ書を引用しながら言います。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決して分からない。その民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」(マタイ13:14,15)

    聖書を読んでいても、聖書の話を聞いていても、また、たとい聖書のことを語っていても、神の声を聞いていないことがあります。筋道としてはあり得ないことです。聖書は神のことばです。それを読むことは神のみこころを知ることです。それでも眼で読み、頭で考えても、聞いていないことがあります。聞くためには目を閉じ、頭を空にして、耳を澄ませて聴いていかなければなりません。聞くことより自分の筋道で結論を出してしまいます。聞くことより論理の筋道で答えを出してしまいます。結論も答えも出ないときがあるのです。

    聞くことは、自分を空しくすることです。聞くことは、心が静まるのを待つことです。聞くことは、心を聴くことです。聞くことは、心に響いてくるかすかな音に耳を傾けることです。聞くことは、信頼することです。聞くことは、待つことです。聞くことは、期待することです。聞くことは、信仰の深奥です。

 

上沼昌雄記

「夕焼け」2008年2月12日(火)

ウイークリー瞑想 

今の仕事場には、自分のマックのiBookを持ってきてインターネットに接続をしています。ここにいる人たちは、それぞれのコンピュータに向かって仕事をしています。その人たちに囲まれた一角です。以前は建物の端で、ミニストリーの事務書類も本も電話も置いてありました。それらは物置に移しました。今は、自分のコンピュータと必要な書類と本をその都度持ってきています。それで机の上もさっぱりとしています。少し寂しいのでふたつの飾り物を置きました。ひとつは、みくにレストランの卓上カレンダーです。コンピュータの右側にあります。2月のカレンダーは、創作カルフォルニア・ロールです。食べたくなります。

もうひとつは、暮れに札幌の小林牧師からいただいたクリスマスカードです。小林牧師はご自分で撮られた写真を毎年のクリスマスカードとして送ってくれます。今回のものには「津軽海峡の夕焼」とタイトルが付けてありました。手製のクリスマスカードで気に入ったこともあって、飾ることにしました。コンピュータの左側にあります。そのことをお知らせしましたら、ご家族のことで八戸に行かれ帰りのフェリーから撮ったもので、「その夕焼けの美しさに、深い慰めを受けました」と返事をいただきました。

今はトンネルができて、海峡の下を30分ぐらいであっという間に通過してしまいます。学生のときに北海道に渡るのに4時間ほど連絡船の旅をしました。当時は東京から青森に来るのも大変時間がかかりました。ですので連絡船のなかでからだを伸ばしたり、自由に動けるのは嬉しかったことです。船の周りを回りながら近づいていてくる函館の景色を眺めていました。真夜中の連絡船では、それぞれ勝手に雑魚寝することもできました。

そんな思い出にしたりながら「津軽海峡の夕焼」を眺めているうちに、夕焼けが出てきたときの景色は、世界中どこに行っても同じ美しさを作り出し、人の心のフイルムに忘れられない映像を刻んでいくもののように思いました。夕焼けが出てくるためには夕日に映える雲がなければなりません。雲の具合と位置で夕陽の映え方がその都度異なります。同じ夕焼けはありません。それでも照らされた夕焼け、影をともなった夕焼け、そのコンビネーションと多彩な面を持ちながら、そこで展開される景色には一様な美しさがあります。

聖書には夕暮れのことは結構記されています。夕焼けの記述はマタイ福音書16章2節だけかも知れません。砂漠を中心とした聖書の世界では夕日はあっても、夕焼けはあまりないのかも知れません。カリフォルニアという乾燥地帯では、雲ひとつない大空に太陽はそのまま沈んでいくだけです。夕日を映えらせる雲が夏場にはないのです。太平洋に火の輪となって沈んでいく太陽を友人と一緒に眺めたことがありますが、それも印象的なことでした。

先日までは雨の日が続きました。そんな雨の切れ間をぬって出てきた太陽に映える夕焼けを眺めました。「津軽海峡の夕焼」と同じように夕日の陰になって浮かんでいる黒い雲があり、照らされて燃えているような雲があります。それも刻一刻と変化していきます。その美しさに接することができるのは限られた時間だけです。多くの場合は見逃してしまいます。そんな待ったなしのこの景色に接することができるのは恵みです。慰めと希望です。

夕焼けは、境界の美しさです。境目の美しさです。地と空の境目、昼と夜の境目、光と闇の境目の美しさです。地の果てに太陽が沈みながらその残り火を空に照らしていく美しさ、夜の到来を昼に語り伝えている美しさ、闇が光を徐々に確実に捕らえていく美しさです。境界だけに展開される移動の美しさです。立ち止まることがなくひとつの終わりを告げる美しさです。すべてが終わって幕を閉じていく美しさです。

照らされる雲に代わって、影を作る雲が地を覆っていきます。空はまだ青みを保っていても、地は確実に闇に覆われていきます。「津軽海峡の夕焼」では、夕日の手前は北海道か本州の外れの地です。そんな美しさに感動して写真のシャッターを押した小林牧師の手前は海です。私の家から見える地は山並みです。町中では家々の屋根です。ビルの谷間かも知れません。そして地の向こうに夕日が沈むにつれて、その動きに合わせて、その日のすべての思いを闇が覆っていきます。その日の疲れを癒すように、その日の悲しみを包むように、その日の怒りを静めるように、地を、海を、平地を、屋根を、ビルを、そしてそこにいる私をしっかりと覆っていきます。夜の静寂が、待っていましたと言わんばかりに私を包んでくれます。

「夕があり、朝があった。」創造の日のこの記述。夕焼けの美しさでいただく神の慰め。それは終わりではなくて、始まりなのだろうと思わされています。あるいは、終わりをもって始まる新しさなのかも知れません。

 

上沼昌雄記

「仕事場」2008年2月6日(水)

ウイークリー瞑想

昨年暮れから新しい仕事場が与えられています。理事のロブさんが再度招いてくれたのです。以前の彼の事務所の改装と、また妻の闘病があって、それまで使わせていただいていた所を引き払って、自分の敷地になんとか物置を作って仕事場にと思っていました。確かに物置としては配線を除いて出来上がりました。ですからいままでの事務机も事務関係のものも書籍も物置に移すことができました。

昨年5月に妻の闘病を何とか乗り越えて家に戻ってきて、家からコードを引いて物置を使ってきました。問題は、高速インターネットの設備が隔離した地域ということでないことです。そのことを秋の理事会で祈ってもらいました。そしたらロブさんが再度、しかも彼の新しい事務所に招いてくれました。彼の事務所も引っ越しをしていました。窓の向こうは街の新しい墓地があります。傾斜地なので毎日見上げています。傾斜地の向こうはかなり先まで見下ろすことができます。昨日の昼にその墓地に散歩をしてきました。

彼のビジネスは、保険会社と病院とのあいだのソフトを作っています。20名ほどの人が全員コンピュータに向かって仕事をしています。私の机はその真ん中ほどにあって、ついたてで仕切れています。前からの知り合いもいます。雰囲気にも慣れてきました。ロブさんの息子さんが隣にいます。集中して仕事ができます。家から通ってきて皆と同じように時間内で仕事をしていくペースもなれてきました。数年心に留めていたものを書きだしています。

ロブさんはナビゲータの活動に深く関わっています。信仰とビジネスを実践しています。私を招いてくれたのも、すこしでも仕事場に信仰の息を入れたいからだと分かります。といっても私は邪魔にならないようにしています。再度この場を提供してくれたときに、私の家賃は皆のために祈ることだと言いました。結構冗談を言う人なので、半分冗談として半分真剣に受け止めて、心で祈ることにしています。

今日の昼に、いま書いているものの関係の本を読んでいるときに、ロブさんが来ました。大きなからだをかかめるようにして、これから東海岸の会社と電話でのカンファレンスをするから祈っていてくれと去っていきました。その祈りの心に留めながらいま書いています。

19年前に初めて知り合ったときは、奥様ともうひとりの人と3人だけのビジネスでした。いまは20名ほどの人が働いています。この事務所は全く新しい建物の2階の端にあります。この2階は彼のビジネス以外全く空き家です。それは自分たちが拡張するために神がとっておいているのだろうと、昨日も言っていました。

先週の金曜日に、いま書いているテーマのことで彼にインタビューをしました。涙を持って語ってくれました。それなりに厳しい道を通されています。決して楽な人生ではありませんでした。昨日は妻も事務所に来て、彼の奥様もいて、ふたりで楽しそうに話をしていました。

ビジネスのために祈る、一般的には祈ることもあるのですが、具体的にこれから東海岸の会社と電話でのカンファレンスをするから祈っていていくれと言われて、祈りつつ書いています。クリスチャン・ビジネスマンが格闘している場に置かれています。緊張感をいただいています。神は決して恥をかかせないお方であると、信じることができます。期待することができます。

 

上沼昌雄記