「透明な男性、責任を取る男性」というテーマで、過ぎる土曜 日、仙台の5つの教会から20名の男性が集まって、一日 男性集会を持ちました。若い人も何人も参加してくれて平均年齢が ぐっと下がりました。見回して、ここには女性はひとりもいないで すねと、教会で女性の多い集会に慣れている男性の本音が出まし た。女性にはできない男性だけの秘密結社として、ここで出たこと は一切外には出さないという約束で集会が始まりました。(唯一の 例外はウイークリー瞑想ですが。) ローマ書7章で、パウロが律法でもなく、他の人でもなく、 ただ自分のうちに住む罪をしっかり捉えています。妻が悪いとか、 子どもが悪いとか、教会が悪いとか、牧師が悪いとか、他の人に責 任をなすりつけるのではなくて、自分の罪をしっかりと受け止める ことで、透明にされるのです。神の書物には罪は隠されないで明ら かにされています。「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生 まれ」(マタイ1:6)とあるように、聖書は罪の歴史 でもあるのです。 「私の罪の歴史」をそれぞれ思い巡らして、ノートに書いていた だきました。それはまさに個人的なことなので、それを話す必要は ないのですが、その作業をしたことで気づかされたことを分かち合 う時を持ちました。私の右手に26歳の若者が、左手に81 歳の方が座っていました。どちらから始めるかお二人で決めてくだ さいと言いましたら、81歳の年配の方が、私からと言ってた めらいもなく立ち上がってくれました。兄弟のことを許していない 自分の罪の歴史を、促されるように語りました。一同厳粛な思いに させられました。それはまさに分かち合いの雰囲気を導いてくれる ものでした。皆どこかで同じことを経験しているからです。 『色彩を持たない多崎つくる、、、』という村上春樹の本がでま した。自分に色彩、すなわち個性がなく、ただ空いた空間のような 心だけで、全く取り柄のないと思っている36歳の男性が、自 分の見つめ、自己を確立していくなかで、自分のなかにどうするこ ともできない「濃密な闇」に気づいていきます。あたかもその闇が 友人を死に追いやり、あるいは事実絞殺してしまったかのような現 実に直面していきます。色彩がないと思っていても、透明ではない のです。色はないのですが、透き通っていないのです。自分の闇に 気づいて、認めていくことで、色がついてくるのですが、心は透き 通ってきます。 他の人ではなく、自分の罪の歴史を認めることができると、他の 人への思いも明確になります。すなわち、自分のために人生を生き ているのではなくて、他の人、妻のため、子どものため、教会のた め、社会のために自分が生かされていることが分かります。それが 「律法の要求が全うされるため」(ローマ8:4)で す。自分はどうあっても構わないのです。他の人が生かされるなら ば、それが生きていることの目的なのです。取りも直さず、イエス の歩まれたことです。 妻のため、子どものため、家族・親族のために祈る時を持ちまし た。祈っていることは言わないで、ただ黙って祈り続けるのです。 それが男性の責任です。どんなことが子どもに起こっても、黙って 祈り続けるのが父親の責任です。さらに、自分のことを好ましく 思っていない人のため、あるいは、自分の罪で傷つけてしまった人 のためにも祈る時を持ちました。「記憶を隠すことができても、歴 史を変えることはできない」という『色彩を持たない多崎つく る、、、』で何度か出てくる言葉のとおり、誰もが罪の歴史を背 負っています。自分の罪で苦しめられ、苦しめてきた人のためにも 祈ることができます。それは罪を赦された者の責任です。 最後に兄弟のためにも祈る時を持ちました。ふたりひと組になっ て互いのために祈りました。まさに私たちは兄弟のために生かされ ているのです。そしてまとめとして、神がわざをなそうとするとき には、こちらの思いとは関係なしにことが進み、自分の平安とか、 祝福とかといっているどころではなくて、あのヨナのように、神に 振り回されるときがあるのではないでしょうかと締めくくりました。 何度も賛美をしました。男性20名で、声高らかに主を讃え るその響きは、会場を突き破りそうなものでした。誰もがこれ以上 大きな声を出せないほど、腹の底から思い切って歌い上げていまし た。その姿は奥様たちに見せたいほどのことでした。しかしその賛 美の余韻は男性たちの心に残って、それぞれの家庭と家族のなか で、新しい歌を生み出していくと信じることができます。 上沼昌雄記
『男性集会』を読ませていただきました。
豊かな空気が読む私の心にも伝わってきます。
私もこの場に居合わせたとしたらどういう罪の告白をしていくのか。そのことを問われます。
「ただ黙って祈り続けるのです。それが男性の責任です。」
その言葉の重みを思っています。
自分に関して、この春の数ヶ月間をかけて、主に導かれて、自分の罪を見つめる旅を続けてきました。
辛く苦しい手術の連続のように感じました。手術を喜んで受ける心の裏には、神様への怒りがあり、失望があり、自分への無力さがへばりついておりました。
優等生で透明な自分が家族のなかでやってきた罪をひとつひとつ
自覚し、自覚することなく周りを傷つけてきた罪の
一つひとつを告白し祈ったときに
静かな、しかし、とてもさわやかな風がまた胸の真ん中に吹き始めました。
そのころからゆっくりと表情が明るくなり始めたように思います。
井戸掘りはこれで終わりではありません。これからもゆるされなければ生きられない自分が続きます。
光の導きがあってはじめていきられる自分を忘れてはなりません。
男性集会を自分に関わることとして応援しています。
自分の井戸掘りのとてもいいきっかけとなるとおもって
『多崎つくると巡礼の年』を読んでいます。
最後のあたりのつくるとエリの会話をたどりながら
実際にはエリを殺してはいないつくるが、もうひとりの顔をもつ自分に出会い
自分を内面を深く理解する場面は、人間というもの無意識の中で生きる人間というものをよく表していると感じています。
エリもまた、自分がつくるを部外者として追いやった背景に、自分の弱さをみとめられなかったことを見つめています。
人間というものは自分の弱さを認められないときに、人をおいやってしまう
悲しさをもったものなのだろうかと自分の家族を見つめています。
弟が今、強く母の死に関して自責の念に駆られていて、そのこころをメールを通して聴いています。
たくさんの言葉は出てこないのですが、「自殺というのは改めて残された家族を暗やみに陥れる怖い行為だと思いました」と書いてあります。
この言葉の重みと共に、
弟と同じように苦しみ続けた自分と、村上春樹の小説を読んで気付かされる自分自身の罪性に気付いている自分の二つが交錯しています。
ユズは
このグループの中で特別に繊細で感受性が強い女性でした。
そしてこのグループの中でこのままではいけないものを感じ取っていました。
そしてとてつもない力で自分も病みながら周囲に大きなものを残していのちを終えました。
このユズと言う存在が私の家族の中の母に似ています。母は
父、私、弟の中にたゆたう透明な味気ない生き方を
知っていて、そのことを問うていてくれたのではないかと思っています。
いのちをかけて。。
かつては理解に苦しんだ
母の言動や生前の荒々しさが、また違った視点の中で
なくてはならなかった大切な存在として思われています。
この変化を私は
本当に喜んで受け入れています。
吉川恭子さん、男性集会の記事への二つのレスポンスを読みながら、吉川さんのなかに湧き上がってきている新しい泉のようなものを感じます。心が温かく潤されて来て、そのぬくもりが伝わってきます。それは男性集会でも感じることができました。心の深くの硬い氷のようなものが溶かされていく感じです。言葉には出していないのですが、伝わってきます。そんな男性たちの心を思い出しています。ありがとうございます。